上鶴間村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:28 UTC 版)
鶴間は元来、現在の相模原市南区東部および大和市北部、さらに東京都町田市南部にまたがってひろがる地名である。相模国高座郡に属するが、近世初期に境川(高座川)が武蔵国との境界とされたため、左岸(東岸)の区域が武蔵国多摩郡鶴間村となった。これが現在の町田市鶴間となる。右岸(西岸)では南北に二分割され、北半が相模国高座郡上鶴間村、南半が同郡下鶴間村となった。後者が現在の大和市下鶴間などとなる。 上鶴間村は現在の相模大野地区や東林間地区など南区東部の広い範囲を占めていたが、古くからの集落は境川沿いの段丘崖周辺(現在の上鶴間本町)に分布し、村域の大部分を占める相模原台地上は「相模野」と総称される原野の一部であり、草刈り場として周辺農村の入会地とされていた。江戸時代後期には神奈川往還沿いに集落が立地するようになるが、深堀川以西の開墾は主に明治期に入ってからのこととなり、親村となった当村内の集落名から「谷口(やぐち)新開」、「中村新開」、「篠原新開」、「中和田新開」と呼ばれた。これらは「新開」と呼ばれ、「清兵衛新田」、「矢部新田」、「淵野辺新田」(いずれも中央区)、「大沼新田」(南区)といった江戸時代に開かれた新田と区別される。明治初期に養蚕が盛んになると台地上には桑畑が広がるようになった。 上鶴間村は江戸時代を通じて幕府直轄領(天領)または旗本領とされ、幕府崩壊後の1868年(慶応4年・明治元年)に明治政府直轄となり神奈川府、次いで神奈川県の所属となった。 1889年(明治22年)の町村制施行に際して同郡の上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村と合併して高座郡大野村の一部となった。
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