淵野辺村とは? わかりやすく解説

淵野辺村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 21:32 UTC 版)

淵野辺」の記事における「淵野辺村」の解説

古くからの集落境川南岸段丘崖周辺(現・淵野辺本町)に分布する中世には段丘崖付近台地上を鎌倉街道のうちの一本通過しており、現在もその古道断片的に残存する南北朝時代にはこの辺りを拠点とした淵辺義博活動伝えられており、現在の淵野辺本町三丁目には淵辺氏の居館跡淵野辺城)が残されている。 江戸時代の淵野辺村は幕府複数旗本家のほか烏山藩との相給とされていた。周辺農村入会地となっていた台地上の原野の開墾が始まるのは江戸時代後期のことである。宝永年間に淵野辺村のほか、境川対岸武蔵国多摩郡)の木曽根岸村いずれも現・町田市)の農民により大沼新田(現・南区西大沼東大沼)が、享保年間には同じ淵野辺村、木曽根岸村から溝境新田(現・由野台付近)が開かれた文政年間開墾進められ淵野辺新田(現・共和東淵野辺)には当時幕府勘定方出役であった最上徳内斡旋関与している。大沼鹿沼水源とするには水量乏しく新田はいずれ畑地として開墾された。また、薪炭確保するために雑木林整備され、その一部大沼新田周辺で現在も比較的広い面積残存している。幕末から明治入り横浜港からの生糸輸出盛んになると、この地域でも養蚕発展し台地上には桑畑広がるようになった幕府崩壊後1868年慶応4年明治元年)に神奈川府が設置されると、当のうち旧幕府旗本領分は同府(まもなく神奈川県改称)の管轄となった烏山藩領分も、1871年明治4年7月廃藩置県烏山県管轄とされたのち、同年11月府県再編神奈川県移管された結果、当全域神奈川県所属となった1889年4月1日町村制施行に伴う明治の大合併で同じ高座郡の上矢部村矢部新田鵜野森上鶴間村合併して高座郡大野村一部となった

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