大字淵野辺
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大野村の発足とともに、旧淵野辺村は大野村の大字淵野辺となり、位置的に同村の中央にあたる当大字南東部、下長久保の神奈川往還沿い(現・南区古淵三丁目)に村役場が置かれた(現・大野中まちづくりセンター)。 1908年(明治41年)、横浜鉄道(現JR横浜線)の開業とともに淵野辺駅が開設されると駅前の市街化が始まり、大野村北部の中心としてだけでなく,近隣の溝村(のち上溝町)や田名村(いずれも現・相模原市中央区)、東京府南多摩郡忠生村(現・町田市)などへの玄関口としても発展した。 1937年(昭和12年)、当時の座間村および新磯村(現・座間市、相模原市南区」)に陸軍士官学校が移転してきたことを皮切りに相模原では陸軍施設の移転・新設が相次ぎ、急速に軍都の様相を呈するようになってきた。当大字周辺では1938年(昭和13年)、隣接する上矢部、矢部新田および相原村の小山にかけての広大な敷地(現・中央区上矢部、矢部新田、小山)に相模兵器製造所(1940年に相模陸軍造兵廠)が開設されたのに続いて、同年に陸軍工科学校(1940年に陸軍兵器学校。上矢部、矢部新田:現・淵野辺一丁目・二丁目)、1943年(昭和18年)に陸軍機甲整備学校(淵野辺、上溝:現・高根三丁目、由野台三丁目、弥栄三丁目)が相次いで開校した。 相次ぐ陸軍施設の開設に伴い、高座郡北部の各町村では軍部の後押しもあって大合併の上、一大軍事都市を作る気運が高まり、1941年(昭和16年)4月29日(天長節)に大野村と上溝町、座間町、相原村ほか4村が合併して高座郡相模原町が発足した。これに先立ち1940年(昭和15年)12月には合併前の大野村、上溝町、相原村にまたがって相模陸軍造兵廠を中心とする計画都市を建設する区画整理事業が神奈川県によって着工された(相模原市#軍都計画および相模原市#相模原町の発足を参照)。当大字は相模原町の大字になるとともに、町役場が当大字内に設置された県の相模原都市建設区画整理事務所(現。鹿沼台一丁目。大野北まちづくりセンター付近)内に暫定的に置かれた(1941年9月に町役場は旧上溝町役場に移転した)。1954年(昭和29年)11月20日の市制施行による相模原市の成立とともに、同市の大字となった。この間、1941年に当大字の南部が大字大沼として、1952年(昭和27年)には東部が大字古淵として分立した結果、当大字は元の北半部のみに縮小した。 1945年(昭和20年)の敗戦後、旧陸軍施設の中には陸軍兵器学校のように細分され学校や研究施設などに転用されたものもあるが、相模陸軍造兵廠と陸軍機甲学校は進駐軍に接収され、そのままそれぞれ在日米軍の相模総合補給廠、キャンプ淵野辺として利用された。さらに、敗戦前は軍需関連工場であった淵野辺駅南東方の区画(現・淵野辺五丁目)が1951年(昭和26年)に接収されて相模工廠淵野辺工場として利用された。相摸工廠淵野辺工場は1960年(昭和35年)に返還されて一般の工場用地となったが、キャンプ淵野辺の返還は1974年(昭和49年)にまでずれ込んだ。 この間、それまでは境川南岸沿いの旧集落と淵野辺駅北口周辺などに限られていた市街地が急速に拡大した。市街化の進行とともに相模原市は住居表示事業に着手し、当大字のうち横浜線以南の区域の一部が第2期の実施対象区域となって1965年(昭和40年)7月1日に当大字から分離した(現・相生、鹿沼台、共和)。以後、当大字内では以下の順に住居表示が行われた。 1965年(昭和40年)7月1日 - 相生一丁目・二丁目(三丁目・四丁目は大字上溝から)、鹿沼台一丁目・二丁目、共和一丁目〜四丁目 1966年(昭和41年)7月1日 - 淵野辺二丁目〜五丁目(一丁目および二丁目の大部分は大字上矢部、矢部新田から) 1968年(昭和43年)7月1日 - 高根一丁目・二丁目、由野台一丁目・二丁目 1973年(昭和48年)7月1日 - 大野台三丁目(大部分は大字大沼から) 1978年(昭和53年)7月1日 - 淵野辺本町一丁目〜五丁目 1984年(昭和59年)7月1日 - 高根三丁目、由野台三丁目(キャンプ淵野辺跡地) 1985年(昭和60年)7月1日 - 東淵野辺一丁目〜五丁目 1985年(昭和60年)7月1日に東淵野辺一丁目〜五丁目が新設されたことで「大字淵野辺」は消滅した。一方で、この間に住居表示による新町名として「淵野辺」「淵野辺本町」が新設されている。このうち、淵野辺一丁目および二丁目の大部分は元の大字上矢部および矢部新田の一部である。 なお併せて、元は大字淵野辺の一部であった大字大沼、古淵における住居表示の経過を以下に掲げる。 大字大沼1970年(昭和45年)7月1日 - 御園一丁目・三丁目(二丁目は大字鵜野森、三丁目の一部および四丁目は大字磯部、五丁目は大字鵜野森、上鶴間、磯部から) 1972年(昭和47年)10月1日 - 西大沼一丁目〜五丁目、東大沼一丁目〜四丁目、若松一丁目〜六丁目(一丁目〜三丁目・五丁目の一部は大字鵜野森から) 1973年(昭和48年)7月1日 - 大野台一丁目〜八丁目(三丁目の一部は大字淵野辺から) 1991年(平成3年)10月1日 - 古淵二丁目・三丁目(一部は大字古淵から) 1997年(平成9年)11月1日 - 古淵六丁目(大字大沼消滅) 大字古淵1991年(平成3年)10月1日 - 古淵一丁目〜五丁目(二丁目・三丁目の大部分は大字大沼から。大字古淵消滅)
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