バス事故とダム操作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 21:05 UTC 版)
「飛騨川流域一貫開発計画」の記事における「バス事故とダム操作」の解説
詳細は「飛騨川バス転落事故」を参照 1968年8月18日、折からの集中豪雨によって飛騨川沿いの国道41号を走っていた観光バス2台が上麻生ダム直下の飛騨川に転落、104名の死者を出す日本のバス事故史上最悪の事故が発生した。飛騨川バス転落事故である。この事故に際し、人命救助の観点から飛騨川流域一貫開発計画で建設されたダム・発電所が異例とも言える操作を行っている。 事故当時の飛騨川は台風崩れの豪雨によって水位が大幅に増水しており、かつ飛水峡という険阻な峡谷にバスが転落していたため、バスの引き上げと乗客の救助活動は難航を極めていた。陸上自衛隊守山駐屯地を始め岐阜県警、消防などが救助活動に当たっていたが、飛騨川流域のダムや発電所を管理する中部電力も要請を受けて岐阜支店長を本部長として社員延べ380名、管理用舟艇350艘を動員して支援体制に入っていた。しかし濁流渦巻く飛騨川の救助活動が難航を極めていることもあり、事故翌日の8月19日に上麻生発電所の全取水発電を行ってダム下流の水位を下げ、転落した2台のうち1台の引き上げを支援した。しかし川の中に没している残り1台の救助は水位がかなり低下しない限り困難であった。 8月21日中部電力は本社会議を行い、救助活動援護を目的に上麻生・名倉の両発電所とダムを利用して飛騨川の水位を極限まで下げる「水位零作戦」の実施を決定、捜索本部連絡会議で提案し了承された。まず上麻生ダムの貯水を全て放流して貯水池を空にし、上流にある名倉発電所では全出力運転を行い取水口である名倉ダムに極力貯水する。上麻生ダムが空になったところで名倉ダムから放流を行い、上麻生ダムはゲートを全閉して可能な限り洪水を貯留、同時に上麻生発電所が全出力運転を行い、ダム湖から取水することで水位の上昇を抑える。この上麻生ダム全閉操作により水がなくなった飛騨川に捜索隊が入り残る1台を捜索するという内容であった。ダムとはいえ上麻生ダムは極めて小規模でかつ治水容量は有しないことから、一歩間違えればダム決壊に繋がる操作であるが、飛騨川の流量が正常に戻るまで待つことが許されないため、ダム管理上異例の操作が8月22日より8月23日までの2日間にわたり岐阜支店長の指揮下で行われた。 ダムが全閉操作を行ってから満水になるまでは30分しか時間の余裕が無かったため、操作は反復して行われた。その30分間に海上自衛隊横須賀基地の潜水部隊と陸上自衛隊豊川駐屯地施設大隊によって残る1台が引き揚げられた。しかし乗客のほとんどは下流に流されていたため、今度は下流にある川辺ダムの全放流操作を1937年の完成以来初めて実施、ダム湖である飛水湖を空にして捜索活動を支援した。大正時代より飛騨川の開発に携わり地形や水文データが蓄積していることが、このような異例の放流操作を行えた要因となっている。なお、事故地点付近に建立された慰霊碑・「天心白菊の塔」は、上麻生発電所職員による清掃活動が月例奉仕として現在も続けられている。
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