下原発電所
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1920年3月に旧岐阜興業が水利権を得た「金山発電所」の計画を2分割したうちの上流側を下原発電所といい、東邦電力が建設した飛騨川の発電所では最上流部に位置する。1936年12月に着工され、1938年(昭和13年)12月25日に竣工した。 下原発電所の所在地は岐阜県益田郡下原村大字中切(現・下呂市金山町中切)。取水は飛騨川(馬瀬川との合流点の上流側で「益田川」とも)と支流の馬瀬川の2河川からで、取水の主体となる益田川に取水堰堤による調整池を設ける。主要設備は電業社製フランシス水車・芝浦製作所製発電機各2台で、発電所出力は22,000kWである。送電線は下流の金山発電所とを繋ぐ77kV線が新設された。
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下原発電所
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下原ダムに付設された下原発電所は当初の計画では1万6,500キロワットの発電を行う計画であった。その後1936年(昭和11年)12月10日には1万9,451キロワットに出力を増強させる計画に変更、さらに完成直前の1938年11月17日には現在の2万2,000キロワットによる出力となり、現在に至っている。ダムと馬瀬川堰堤で取水された水はそれぞれ2,282メートル、3,049メートルの水圧鉄管を通して約2キロメートル下流の発電所に送られ、電力を生み出す。使用する水量の割合は飛騨川分と馬瀬川分を5対1の比で取水する。鉄管は国道41号やJR高山本線の下を潜るため、これに対応すべく橋梁を建設した。 中部電力はその後朝日ダムを皮切りに飛騨川流域一貫開発計画による大規模水力発電計画を進めていったが、下原ダムはこの計画によって大幅な電力発生量の減少を余儀無くされた。1976年(昭和51年)馬瀬川に岩屋ダムと馬瀬川第二ダムが完成し揚水発電の馬瀬川第一発電所が運転開始、二年後の1978年(昭和53年)には中呂(ちゅうろ)発電所が運転開始して馬瀬川からの取水量が減少したことにより、完成当時は年間発生電力量が約1億3,076万キロワット時だったのが、両発電所の運用開始に伴い年間1,800万キロワット時と、約9分の1近くに減少したのである。だが現在中小規模の水力発電開発が経済産業省によって推奨されている中、下原ダムと下原発電所の役割は飛騨川からの電力供給において重要な役割を担っていることには変わりない。
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