飛騨川第一発電所計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/23 02:37 UTC 版)
飛騨川は急流で水量も多く、水力発電を行うには絶好の河川であった。開発の歴史は古く、大正時代には日本電力と東邦電力が競うように飛騨川流域で水力発電事業を進めた。このうち「電力王」こと松永安左エ門が率いる東邦電力は1919年(大正8年)、前身である岐阜興業発起人の時に飛騨川第一・飛騨川第二・飛騨川第三発電所の水利権使用申請を行い、河川管理者である岐阜県に受理されたことで正式な開発がスタートした。この計画はその後変更が重ねられ、当初の飛騨川第一発電所計画は益田郡下原村にそれぞれ金山発電所と下原発電所の二つに分離して建設されることとなった。 下原発電所はダム水路式発電所として計画され、飛騨川中流部の峡谷である中山七里(なかやましちり)に下原ダムを建設するほか、金山で飛騨川に合流する馬瀬(まぜ)川の下流部に馬瀬川堰堤(まぜがわえんてい)を設けてそれぞれより取水した水を発電所までトンネルで導水して発電する方法を採った。同時に馬瀬川堰堤直上流部に東村発電所を建設し、馬瀬川と和良川の水を取水して発電を行うという計画も立てていた。ところが全く同じ時期に同じ飛騨川流域で電力開発を進めていた日本電力は、馬瀬川の上流部に西村ダムを建設し、ここから取水した水を飛騨川本流にトンネルで導水し、1924年(大正13年)に完成していた瀬戸第一発電所において発電する瀬戸第二発電所計画を進めていた。仮に瀬戸第二発電所が完成すれば馬瀬川の取水量は極端に減少し、下原発電所は導水トンネル位置の大幅な変更を余儀無くされるだけでなく、東村発電所は計画自体が成り立たなくなるという大問題が発生した。そこで両社は長期間を費やして協議を重ね、最終的に以下の四項目で妥結を見た。 東邦電力は日本電力の瀬戸第二発電所建設によって起こる下原・東村両発電所への影響について異議を申し立てないこと。 東邦電力は下原発電所における取水について、馬瀬川からの取水量を減らし差分は飛騨川からの取水増加で補うこと。 東邦電力は東村発電所の水利権使用申請を取り下げること。 両社は両計画を1938年(昭和13年)10月末日までに全て完成させ、日本電力は完成期日が遅れた場合には東邦電力に発電水利に関する損害を賠償すること。 東邦電力の水利権使用申請は1927年(昭和2年)、日本電力の水利権使用申請は1930年(昭和5年)であり東邦電力の方が先に申請を行っている。にもかかわらず東邦電力が大幅に日本電力に対して譲歩した内容での妥結となったが、それは日本電力の瀬戸第二発電所計画の方がより効率的に飛騨川の水力開発を行える計画案であったことによる。こうして東邦電力は下原発電所の建設に着手することが出来るようになった。なお瀬戸第二発電所はこの協議に定められた期日どおりに完成している。
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