施工と管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/23 02:37 UTC 版)
こうして施工が開始されたが、ダム建設によって流木補償という現在では見られない補償事由があった。日本電力が瀬戸第一発電所を建設する際に、当時盛んであった林業の主要輸送手段であった流木が途絶えるとして飛州木材株式会社との間で激しい対立を繰り広げた「益田川流木事件」が1924年に起こっており、岐阜県議会議長の周旋で辛うじて流血の事態が避けられたという経緯があった。このため飛騨川を管理する岐阜県は慣行流木権の保護を目的に、ダム建設時には流木路確保のための流筏路(りゅうばつろ)と流木維持のための放流を必ず実施するという条件で、発電用水利権の使用許可を下していた。現在でいうところの漁業補償の「魚」が「木」に代わったようなものである。これに伴い下原ダムにも左岸部に魚道様の流筏路が設けられた。だが皮肉にも下原ダムが建設されている頃には高山本線が岐阜駅と高山駅間で1934年(昭和9年)10月25日に開通。以後流木から鉄道輸送に木材輸送が切り替わったことでこの流筏路はほとんど使われることはなかった。 下原ダムと下原発電所はさまざまな計画変更や難局を乗り越えて1938年12月に五年の歳月を経て完成した。ところが下原ダムが完成した時期は日中戦争が激化の一途をたどり、軍部が次第に政治を支配するようになった。そうした時勢において国家総力戦を推進していた第1次近衛内閣は陸軍統制派の圧力もあり国家総動員法と共に電力管理法を同年3月に成立させた。その趣旨は全国の発電・送電施設を国家の統制下におくというものであって翌年には執行機関として特殊法人である日本発送電株式会社が発足した。東邦電力社長職に在った松永安左エ門はこれを痛烈に批判したことで隠退を余儀無くされ、抵抗も空しく下原ダムを含め全ての発電所は国家管理の名の下に事実上接収された。 ここにおいて下原ダムは「国直轄」のダムとして管理されたが、太平洋戦争の敗戦後日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって日本発送電は1948年(昭和23年)に過度経済力集中排除法の指定を受け、1951年(昭和26年)にはポツダム政令の下電気事業再編成令が公布されて分割・民営化された。旧東邦電力は中部電力として再出発したが、飛騨川の発電用水利権と発電施設の帰属について旧日本電力の流れを汲む関西電力との間で対立が生じた。だが最終的には公益事業委員会の調停で全ての施設と水利権は中部電力が所有することになり、下原ダムは中部電力に管理が継承され、現在に至っている。
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