益田川流木事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 21:05 UTC 版)
「飛騨川流域一貫開発計画」の記事における「益田川流木事件」の解説
流木に対する補償は主に戦前の一時期に見られた補償形態であり、戦後は佐久間ダム(天竜川)や長安口ダム(那賀川)など少数に留まり現在は実施されていない。飛騨川流域の山林は江戸時代は加茂郡の一部が尾張藩の領地として、明治時代は皇室御料林として管理される美林であった。その総面積は20万ヘクタールにも及び、ヒノキ、スギ、モミなどが生育するため江戸時代以降林業が盛んになった。当時の飛騨川流域は険阻な峡谷のため道らしい道は存在せず、木材を名古屋方面に運搬するには専ら流木による輸送が行われていた。流れた木材は現在の加茂郡七宗町下麻生にていかだに組みなおされ、木曽川を下って名古屋へ輸送された。こうした流木が行われるのは洪水期を避ける意味から水量の少ない冬季に行われるが、往々にして急流河川で流木は実施されていたことから、急流河川で好んで行われた水力発電開発が流木を途絶させるため流木業者との相性は悪かった。しかも流木が盛んに行われる冬季は水が少ないため、水力発電所は水量を確保するために特に取水を強化する時期であり、水量が少なくなって流木が支障を来たすことで流木業者の不満は高まる一方であった。 これらの理由で電力会社と流木業者の紛争はしばしば激しいものとなった。特に知られているのが、庄川において浅野総一郎率いる庄川水力電気と飛州木材が、小牧ダム建設と慣行流木権の有無を巡り長期にわたって法廷闘争にまで発展した庄川流木事件である。この庄川流木事件に先んじ、飛州木材は飛騨川においても日本電力との間で慣行流木権を巡り激烈な紛争を1920年から1924年まで繰り広げていた。これを益田川流木事件と呼ぶ。契機となったのは日本電力が瀬戸第一発電所を建設する際に、河川管理者である岐阜県知事から流木権保全のため冬季の流木シーズンには毎秒400立方尺の放流義務を許可条件としたことに始まる。しかしこれを行うと冬季の取水量は激減し発電能力は最大で2万7000キロワットの能力がわずか2,000キロワット弱に低下し、発電所として用を成さなくなる。このため発電所に導水する導水路を流木用水路と兼用させ、発電能力の維持を図る折衷案を県知事に提示し、許可を受けた。ところが飛騨川の流木を一手に引き受けていた飛州木材は当初の条件を遵守するよう強硬に異議を申立て、折衷案を是とする日本電力との間で激しい対立を招き、瀬戸ダムに貯留した木材の流下を促すためのゲートの開放を巡り両者が一触即発の衝突寸前にまで至った。 事態を重視した岐阜県は県議会議長を仲介役として調停に入り、木材輸送に関する輸送期間の遵守と流木従事者への賃金負担、輸送期間を超過した場合の損失補てんを盛り込んだ覚書を飛州木材と交わし、代わりに折衷案を飛州木材は認めることで合意が図られ、4年間に及ぶ紛争は解決した。この益田川流木事件以降、流木権維持のためダムには魚道の流木版である流木路を設けて流木を円滑にさせることが絶対条件となり、川辺ダム建設までは流木路や舟運確保のためのレール敷設が行われた。しかし1934年(昭和9年)10月25日に高山本線が岐阜駅と高山駅間で全通したことで木材輸送は一挙に鉄道輸送に切り替えられ、流木による木材輸送は衰退。戦後は全く見られなくなりダムや発電所建設において流木補償を行う必要性はなくなった。
※この「益田川流木事件」の解説は、「飛騨川流域一貫開発計画」の解説の一部です。
「益田川流木事件」を含む「飛騨川流域一貫開発計画」の記事については、「飛騨川流域一貫開発計画」の概要を参照ください。
- 益田川流木事件のページへのリンク