開発・製造の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 06:28 UTC 版)
1950年代中期に至ると初期の経営を支えた自転車後付け式のエンジンキットも同クラスの類似競合製品が増加し、前述したカブF型も安穏としていられる状況ではなくなりつつあった。 また戦後復興が進んだ日本のオートバイ市場でも簡易な自転車補助エンジンに不満を持つユーザーからは、富士重工業(現・SUBARU)製「ラビット」・中日本重工業(現・三菱重工業)製「シルバーピジョン」に代表される125 cc - 250 ccクラスの上級スクーターが、運転しやすさや性能面のゆとりにより支持されるようになっていた。 このような市場趨勢をマネジメントの見地から考慮した藤沢武夫は、カブF型の後継モデルとなり得る廉価な実用的小排気量オートバイの開発・製造販売を考えた。藤沢は「(商品として)カブのような自転車に取り付ける商品ではなく、50 ccエンジンとボディぐるみのもの(完成車)が欲しい」と本田宗一郎に訴えたが、本田は技術を担う立場からの判断で当初は「(50 cc完成車として)乗れる(性能の)ものは作れない」と一蹴していた。 しかし藤沢は、1956年の欧州視察旅行往路旅客機中で50 cc級完成車の件を再び本田に持ちかけた。本田も最初はうるさがっていたが、藤沢の熱心さにようやく関心を持ち始め、結果として道中でクライドラーやランブレッタなどの欧州製スクーター・モペッドなどを見かけると「これはどうだ」と藤沢に尋ねるようになった。問答を重ねるうち、本田は藤沢の求める商品性の高い新製品のイメージを膨らませるようになった。そのコンセプトからは、もはや従来のカブや欧州製モペッドのような自転車式ペダルは排除されていた。 帰国後には本田の陣頭指揮により、新型モペッドの開発が開始された。特に耐久性の高い高回転4ストロークエンジンと変速を容易化するクラッチシステムの実用化には苦心を重ね、最終的に50 ccクラスながら既存上位排気量車にも比肩する出力を絞り出す高回転エンジンならびに無段変速機付スクーターにこそ及ばないものの変速操作を容易にした自動遠心クラッチ式変速機を揃って完成させた。 1957年末に本田から研究所へ呼び出された藤沢は、本田から自転車取付式エンジンのような足漕ぎペダルを排除したスマートなモペッドの実物大模型とスペックの説明を受けた。「どうだい専務。これなら、どれくらい売れる?」と本田が質問すると、藤沢は「まあ、3万台だな」と応じた。カブの若手デザイナー森泰助が「年間3万台ですか?」と口をはさんだところ、藤沢は「バカ言え。月に3万台だよ!」と返し、その場に居合わせた一同を驚愕させた。当時の同社主力商品であるドリームとベンリィを合算した生産台数は、月産で6,000から7,000台。さらに日本全国の二輪車販売台数が2万台程度であったから、藤沢の見積もりが正しければ競合メーカー同級車種を圧倒するばかりか、日本のオートバイ市場そのものが一挙に押し広げられることを意味した。 C100スーパーカブは1958年6月から生産開始し、同年8月に発売。若干の初期不良は見られたものの比較的短期間で生産販売は軌道に乗り、生産台数は1958年度約2万4,000台、1959年度16万7,443台を達成。1960年には月産30,000台体制を見込み多額の投資で三重県鈴鹿市平田町に鈴鹿製作所を建設し稼働開始。1960年度の生産台数は56万4,365台となり、当初の「過剰設備ではないか」との危惧も杞憂で、工場はフル稼働することになった。 日本の小型オートバイ・スクーター市場は、1950年代の一時は大小数十のメーカーが群雄割拠の状態にあったが、スーパーカブの発売から数年で中堅・零細のアッセンブリー・メーカーは市場から一掃された。生き残った大手・中堅メーカーも相次いで本モデル類似のモペッドを開発して追随し、可能性を高く評価した藤沢の予見は事実となった。 発売当時の画期的な試みとして、レッグシールドやカバーなどの直接応力のかからないパーツに大型プラスチック素材(ポリエチレン)が使われ、軽量化や組み立て合理化に役立った。 簡潔で軽量かつ堅牢な全体構造に強力なエンジンと扱いやすい変速機を組み合わせた結果、生産から60年以上経つ最初期モデルであっても充分に整備されていれば21世紀初頭の都市交通の流れに乗れ、また業務用に使用しても何ら支障の無いほど高水準の性能を得ている。その当初から、極めて完成度の高い工業製品となった。
※この「開発・製造の経緯」の解説は、「ホンダ・カブ」の解説の一部です。
「開発・製造の経緯」を含む「ホンダ・カブ」の記事については、「ホンダ・カブ」の概要を参照ください。
- 開発・製造の経緯のページへのリンク