金華山信仰とは? わかりやすく解説

金華山信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:11 UTC 版)

黄金山神社 (石巻市)」の記事における「金華山信仰」の解説

近世以降の金華山信仰は財運主眼とする現世利益弁財天求めるものであるが、その根底には黄金産出による授福を待望する余りに在住地域のどこかに黄金溢れた場所があってそれがいつの日にか現出するという民衆期待があり、それに乗じた修験者が、金華山天平産金史実結び付ける等しつつ民衆理想現実化した地として金華山存在説き信仰圏拡大果たしたものと考えられ遂に金華山周辺においては島の一角黄金埋まっていると信じられ或いはほぼ全島花崗岩から成り金鉱脈存在しないにも拘わらず広く全国的に金華山黄金出来た島であるといった観念生じさせており、西川如見においては世界の図に日本の東海に金島銀島ありとは此島(金華山)ならん」と、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に代表されるヨーロッパ人日本即金銀島観を受け容れ、それを更に局地的に金華山当て嵌めている。 <拾遺 その2金海鼠(きんこ) 金華山近海生育する海鼠は「金海鼠(きんこ)」と呼ばれ金華山生じ金砂食する故にかく名付けられたといい、佐久間洞厳が、色は濃い黄色鶏卵如くこれ即ち「金気所化であろう述べる等、産金伝説との関連示している。洞厳に因るとその形は円く裏に傷があるのが特徴で、橘南谿に因ると他産の海鼠比べて小さく、味は格別乾し堅めたものは日本全国珍重されたといい、古川古松軒も背に金色があり、他産の海鼠とは大い異なるとの聞き書きをしている。 金華山と金華山近世中期以降になると仙台藩内を初め他国からも弁財天による福徳実現求め参詣者を集め仙台から石巻経て金華山へ至る参詣道当時一般旅行案内書である『諸方早見道中記』や『諸国道中記』にも記され、それらによると石巻迄はほぼ石巻街道利用され、そこから陸海行路分かれていたようである。但し、その後経路については不分明で、渡波(わたのは)を経由して牡鹿半島西海岸陸路または海路南西端の鮎川迄向かう表浜(おもてはま)街道と、女川経由して牡鹿半島東海岸陸路山鳥やまどり)まで南下する裏浜(うらはま)街道とがあったと推測されている。両路とも直接海路金華山赴くことも可能であったが、信心験す意味からも陸路をとるものとされ、表浜街道海路をとる場合でも鮎川下船し、そこから駒ヶ峯の峠を越えて山鳥へ至る半島横断路が辿られ、山鳥に建つ一ノ鳥居潜ってから山鳥渡やまどりわたし)と呼ばれる海峡山鳥の瀬や金華山瀬戸とも呼ぶ)を渡る習いで、山鳥渡島者が集まった時点で鐘を撞けば島(金華山)から船が迎えに来たという。但し、金華山周辺潮流激し難所として知られ古来から難船多く時化の晩には水死者の亡霊現れ就航中の船に近寄って柄杓を貸すように頼んだと言われているが、山鳥渡も距離は短いものの「御殿隠し」と呼ばれる大波頻繁に立ち、余りに風波激し時には金華山からの迎船が来られない為に参詣者は鮎川戻って滞留する事もあった。金華山着岸し参詣者は神聖な島へ俗界汚穢持ち込まないようにと新しい草鞋に履き替えてから上陸大金寺参詣しその後お山がけ」と称する島内の登拝地巡拝後述)に赴く場合大金寺一夜参籠して翌朝お山がけに出立するであったまた、金華山島は黄金出来た島であると信じられ参詣終えて離島する際には金等の鉱石は勿論、一木一草から砂一粒に至る迄「島の神惜みたまふゆへ」に島外持ち出す事は禁忌とされ、参詣者は上陸時草鞋桟橋脱ぎ置く慣例であり、違背すれば帰船が動かなくなった沈没したりするとも言われていて、真偽不明ながら木内石亭金華山参詣して島内金砂窃か懐中して帰路に着くと乗船した船が荒波遭遇して進めなくなり船夫詮索で事が露見した為に金砂返却せざるを得なかったという逸話残されている.。草鞋慣例見られる金華山聖域視する観念強く大金寺僧侶遷化しても決し島内埋葬する事は無く、その遺骸対岸山鳥まで運ばれていたといい、また女性渡島堅く禁ぜられ、彼等上述山鳥の一の鳥居から山を遙拝したという。 また、各地に金華山信仰の為の金華山講と呼ばれる講が結成されたが、既存の講組織から転化したものもあったようで、中には巳待講称され巳日中心に種々の宗教行為そのまま伴っていたものもあった。講への加入女人禁制思想から男子限られ、それも主として戸主層から構成されており、年に数回設けられる開講日には多く講員から輪番制で宿を定めて集まり座敷床の間といった上座金華山掛け軸掛けて祭壇とし、灯明点して神酒捧げ講中拝んでから精進料理での会食となる。遠隔村落にあって経済的その他の理由から金華山詣が容易でない場合は、講を代表する代参者を選んだり(2人場合が多い)、参詣果たした代参者が授与され神札講中配布したりする。金華山詣が重ねられると、それを記念する石碑村落入り口や辻、鎮守社境内等に建立される事があり、また弁財天鎮守社境内小祠として勧請した屋敷神として祀ったりする事もあった。各地金華山講には結成以来存続するものや一定期間の後に解散したもの等、様々な相があるが、現代では宮城県中心とする東北諸県始め北海道千葉県に及ぶ大小併せておよそ500の講が存在し大正10年1921年)には黄金山神社神社再興信仰圏拡大を図る目的既存の講を編成し直した永代講」の組織もある。 なお、金華山からの産金有り得ず天平産金史実江戸時代中半には否定されてはいたが、明治・大正期牡鹿郡一帯でよく歌われ遠島甚句(としまじんく)において「金華山には大箱小箱それにつづいて金もある」や「沖に大漁風が吹けば島に黄金花が咲く」と歌われ同じく松坂ぶし(一名松島ぶし)において「東にあたり金華山、あれは黄金の山じゃもの」と歌われたように大正末期頃迄なお黄金出来た島との幻想を抱く者も跡を絶たなかった。

※この「金華山信仰」の解説は、「黄金山神社 (石巻市)」の解説の一部です。
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