金華山信仰
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「黄金山神社 (石巻市)」の記事における「金華山信仰」の解説
近世以降の金華山信仰は財運を主眼とする現世利益を弁財天に求めるものであるが、その根底には黄金産出による授福を待望する余りに在住地域のどこかに黄金に溢れた場所があってそれがいつの日にか現出するという民衆の期待があり、それに乗じた修験者が、金華山に天平産金の史実を結び付ける等しつつ民衆の理想が現実化した地として金華山の存在を説き、信仰圏の拡大を果たしたものと考えられ、遂には金華山周辺においては島の一角に黄金が埋まっていると信じられ、或いはほぼ全島が花崗岩から成り金鉱脈が存在しないにも拘わらず、広く全国的に金華山は黄金で出来た島であるといった観念を生じさせており、西川如見においては「世界の図に日本の東海に金島銀島ありとは此島(金華山)ならん」と、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に代表されるヨーロッパ人の日本即金銀島観を受け容れ、それを更に局地的に金華山に当て嵌めている。 <拾遺 その2>金海鼠(きんこ) 金華山の近海に生育する海鼠は「金海鼠(きんこ)」と呼ばれ、金華山に生じる金砂を食するが故にかく名付けられたといい、佐久間洞厳が、色は濃い黄色で鶏卵の如くこれ即ち「金気の所化」であろうと述べる等、産金伝説との関連を示している。洞厳に因るとその形は円く裏に傷があるのが特徴で、橘南谿に因ると他産の海鼠に比べて小さく、味は格別で乾し堅めたものは日本全国で珍重されたといい、古川古松軒も背に金色があり、他産の海鼠とは大いに異なるとの聞き書きをしている。 金華山詣と金華山講 近世中期以降になると仙台藩内を初め他国からも弁財天による福徳の実現を求める参詣者を集め、仙台から石巻を経て金華山へ至る参詣道は当時の一般旅行案内書である『諸方早見道中記』や『諸国道中記』にも記され、それらによると石巻迄はほぼ石巻街道が利用され、そこから陸海の行路に分かれていたようである。但し、その後の経路については不分明で、渡波(わたのは)を経由して牡鹿半島西海岸を陸路または海路で南西端の鮎川迄向かう表浜(おもてはま)街道と、女川を経由して牡鹿半島東海岸を陸路で山鳥(やまどり)まで南下する裏浜(うらはま)街道とがあったと推測されている。両路とも直接海路で金華山へ赴くことも可能であったが、信心を験す意味からも陸路をとるものとされ、表浜街道で海路をとる場合でも鮎川で下船し、そこから駒ヶ峯の峠を越えて山鳥へ至る半島横断路が辿られ、山鳥に建つ一ノ鳥居を潜ってから山鳥渡(やまどりわたし)と呼ばれる海峡(山鳥の瀬や金華山瀬戸とも呼ぶ)を渡る習いで、山鳥に渡島者が集まった時点で鐘を撞けば島(金華山)から船が迎えに来たという。但し、金華山周辺は潮流が激しい難所として知られ、古来から難船も多く時化の晩には水死者の亡霊が現れて就航中の船に近寄っては柄杓を貸すように頼んだと言われているが、山鳥渡も距離は短いものの「御殿隠し」と呼ばれる大波が頻繁に立ち、余りに風波が激しい時には金華山からの迎船が来られない為に参詣者は鮎川へ戻って滞留する事もあった。金華山に着岸した参詣者は神聖な島へ俗界の汚穢を持ち込まないようにと新しい草鞋に履き替えてから上陸、大金寺へ参詣し、その後「お山がけ」と称する島内の登拝地巡拝(後述)に赴く場合は大金寺に一夜参籠して翌朝にお山がけに出立する例であった。また、金華山島は黄金で出来た島であると信じられ、参詣を終えて離島する際には金等の鉱石は勿論、一木一草から砂一粒に至る迄「島の神惜みたまふゆへ」に島外に持ち出す事は禁忌とされ、参詣者は上陸時の草鞋を桟橋に脱ぎ置く慣例であり、違背すれば帰船が動かなくなったり沈没したりするとも言われていて、真偽は不明ながら木内石亭が金華山に参詣して島内の金砂を窃かに懐中して帰路に着くと乗船した船が荒波に遭遇して進めなくなり、船夫の詮索で事が露見した為に金砂を返却せざるを得なかったという逸話も残されている.。草鞋の慣例に見られる金華山を聖域視する観念は強く、大金寺の僧侶が遷化しても決して島内に埋葬する事は無く、その遺骸は対岸の山鳥まで運ばれていたといい、また女性の渡島は堅く禁ぜられ、彼等は上述山鳥の一の鳥居から山を遙拝したという。 また、各地に金華山信仰の為の金華山講と呼ばれる講が結成されたが、既存の講組織から転化したものもあったようで、中には巳待講と称され巳日を中心に種々の宗教行為をそのまま伴っていたものもあった。講への加入は女人禁制の思想から男子に限られ、それも主として戸主層から構成されており、年に数回設けられる開講日には多く講員から輪番制で宿を定めて集まり、座敷の床の間といった上座に金華山の掛け軸を掛けて祭壇とし、灯明を点して神酒を捧げ、講中で拝んでから精進料理での会食となる。遠隔の村落にあって経済的その他の理由から金華山詣が容易でない場合は、講を代表する代参者を選んだり(2人の場合が多い)、参詣を果たした代参者が授与された神札を講中に配布したりする。金華山詣が重ねられると、それを記念する石碑が村落の入り口や辻、鎮守社の境内等に建立される事があり、また弁財天を鎮守社境内に小祠として勧請したり屋敷神として祀ったりする事もあった。各地の金華山講には結成以来存続するものや一定期間の後に解散したもの等、様々な相があるが、現代では宮城県を中心とする東北諸県を始め北海道や千葉県に及ぶ大小併せておよそ500の講が存在し、大正10年(1921年)には黄金山神社が神社の再興と信仰圏拡大を図る目的で既存の講を編成し直した「永代講」の組織もある。 なお、金華山からの産金も有り得ず天平産金の史実も江戸時代中半には否定されてはいたが、明治・大正期に牡鹿郡一帯でよく歌われた遠島甚句(としまじんく)において「金華山には大箱小箱それにつづいて金もある」や「沖に大漁の風が吹けば島に黄金の花が咲く」と歌われ、同じく松坂ぶし(一名松島ぶし)において「東にあたりし金華山、あれは黄金の山じゃもの」と歌われたように、大正末期頃迄なお黄金で出来た島との幻想を抱く者も跡を絶たなかった。
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