酒折宮伝承の解釈とは? わかりやすく解説

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酒折宮伝承の解釈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 02:35 UTC 版)

酒折宮」の記事における「酒折宮伝承の解釈」の解説

酒折宮に関するヤマトタケル伝承は、同じく記紀において雄略天皇期から奈良時代甲斐国から朝廷駿馬貢馬が行われていたとする甲斐の黒駒伝承並び古代甲斐畿内政権との関わりを示すものとして重要視されている。戦後には磯貝正義原秀三郎大隅清陽宝賀寿男らによる考古文献両面からの検討が行われている。 古墳時代から古代にかけての甲斐国において、考古学的に甲府盆地南端曽根丘陵において弥生後期段階から東海地方文化的影響を受け、4世紀中頃から後半代には畿内影響受けた前方後円墳である大丸山古墳甲斐銚子塚古墳出現するその後5世紀には馬具を伴うかんかん古墳築造されており後続勢力存在しているが曽根丘陵における勢力はしだい衰え盆地各地中小規模古墳築造される。 古代には盆地東西勢力出現し甲斐国甲斐郡の成立においては盆地西部には渡来人集住した巨摩郡が立評され盆地東部には国府所在地である山梨八代郡成立した現在の酒折地域を含む盆地縁地域は巨摩郡山梨郡の境界位置している。 酒折宮伝承歴史的背景はこうした考古学的背景前提研究展開されている。磯貝古代甲斐国畿内王権服属ていった過程甲斐銚子塚古墳築造された4世紀後半かんかん古墳築造甲斐の黒駒伝承記した雄略朝期の6世紀、さらに7世紀大化の改新経た段階的な服属過程提唱した。そして、酒折宮伝承4世紀後半以降の歴史背景反映しヤマトタケル東征酒折宮伝承5世紀後半の『宋書倭国伝』に見られる毛人五十国平定を反映した可能性指摘している。磯貝5世紀後半段階甲斐はすでに畿内政権服従下にあり、ヤマトタケル東征における甲斐畿内王権東国平定際した前進基地であった位置づけている。また、磯貝現在の酒折宮伝承地とし、記紀において記される酒折宮」に比定する点については慎重視している。 古代甲斐前期国府所在地とされる笛吹市春日居町には「国衙地名物部神社山梨郡山梨郷に比定される山梨岡神社存在など古代甲斐政治的中心地であった考えられているが、原秀三郎記紀における「酒折」の地を春日居町域から曽根丘陵にかけての広域比定し、酒折宮伝承歴史的背景甲斐銚子塚古墳築造された4世紀後半代としている。 原は「山梨地名甲斐以外でも遠江国下総国において存在しいずれも畿内影響受けた前方後円墳物部氏伝承を伴う共通点指摘し酒折宮伝承における御火焼老人畿内王権服従した甲斐銚子塚古墳被葬者推測した。さらにその出自物部氏とし、酒折宮伝承ヤマトタケル東征歴史的背景遠江拠点とした物部一族甲斐下総へと進出する過程反映していると説明している。 しかし、宝賀は甲斐国見られる祭祀御室山や大神神社など三輪氏の系統多く浅間神社など甲斐国造同じく彦坐王後裔とされる但馬国造・日下部氏系統見られ東海方面広がる穂国造浜名県主同様な習俗保有していたことを指摘している。このため宝賀は原の説に反論し甲斐国造系統三輪氏・磯城県主同族で、国造系図からもヤマトタケル東征よりも少し早い時期垂仁朝)に塩海足尼父祖甲斐国到来した唱えている。 また宝賀は塩海足尼景行朝に甲斐国造任命されたとする国造設置時期から、ヤマトタケル東征時に塩海足尼はまだ老人になっていなかったと指摘し酒折宮伝承御火焼老人東国諸国造の祖となった建許呂命であるとしている。この場合甲斐最古古墳位置づけられる大丸山古墳被葬者は、塩海足尼の父である臣知津彦命が想定されるとしている。なお江戸時代明治時代系図学者である鈴木真年は、著書日本事物原始』の中で早く御火焼老人建許呂命であると指摘している。 大隅清隅は「酒折」の比定地域を盆地北縁から曽根丘陵にかけての広域とする原説対し開発年代相違指摘し地域区分交通体系の点からも成り立ちがたいと反論している。また、磯貝に対して現在の酒折宮所在する盆地北縁が6世紀代の開発地域である点から、酒折宮伝承6世紀代の歴史的背景反映している可能性指摘している。 大隅は「酒折」の地名に関して江戸中期編纂された甲斐国総合地誌である『甲斐国志』において、近世甲斐地域区分である九筋二領起源酒折の地から分岐した街道としている点に注目し、さらに『古事記伝』において指摘されている「酒折」の語源境界意味するサカ(坂、界、境)と「重なり」を意味するオリ」としている説から敷衍し、「酒折地名は本来的には境界意味する坂折」が記紀記されるヤマトタケル饗応を記す伝承関係して酒折」に変化した可能性指摘している。 また、平川南過所木簡正税帳などの記録資料から古代甲斐国交通史的位置づけ検討し古代甲斐律令制下における東海道東山道を結ぶ結節点として位置づけている。大隅平川同様に従来磯貝原説などが主に政治史観点から酒折宮伝承歴史的背景考察しているのに対し盆地縁地域の開発古代甲斐交通体系観点から位置づけ試み盆地縁地域を意味する酒折」の地は諸道交差する「衢(ちまた)」であった可能性指摘している。

※この「酒折宮伝承の解釈」の解説は、「酒折宮」の解説の一部です。
「酒折宮伝承の解釈」を含む「酒折宮」の記事については、「酒折宮」の概要を参照ください。

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