酒折宮伝承の解釈
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酒折宮に関するヤマトタケル伝承は、同じく記紀において雄略天皇期から奈良時代に甲斐国から朝廷に駿馬の貢馬が行われていたとする甲斐の黒駒伝承と並び、古代甲斐と畿内政権との関わりを示すものとして重要視されている。戦後には磯貝正義・原秀三郎、大隅清陽、宝賀寿男らによる考古・文献両面からの検討が行われている。 古墳時代から古代にかけての甲斐国において、考古学的には甲府盆地南端の曽根丘陵において弥生後期段階から東海地方の文化的影響を受け、4世紀中頃から後半代には畿内の影響を受けた前方後円墳である大丸山古墳や甲斐銚子塚古墳が出現する。その後5世紀には馬具を伴うかんかん塚古墳が築造されており後続勢力が存在しているが曽根丘陵における勢力はしだいに衰え、盆地各地に中小規模の古墳が築造される。 古代には盆地東西に勢力が出現し、甲斐国・甲斐四郡の成立においては盆地西部には渡来人が集住した巨摩郡が立評され、盆地東部には国府所在地である山梨・八代郡が成立した。現在の酒折地域を含む盆地北縁地域は巨摩郡・山梨両郡の境界に位置している。 酒折宮伝承の歴史的背景はこうした考古学的背景を前提に研究が展開されている。磯貝は古代甲斐国が畿内王権に服属していった過程を甲斐銚子塚古墳が築造された4世紀後半、かんかん塚古墳の築造・甲斐の黒駒伝承を記した雄略朝期の6世紀、さらに7世紀の大化の改新を経た段階的な服属過程を提唱した。そして、酒折宮伝承は4世紀後半以降の歴史的背景を反映し、ヤマトタケルの東征・酒折宮伝承は5世紀後半の『宋書倭国伝』に見られる毛人の五十五国平定を反映した可能性を指摘している。磯貝は5世紀後半段階で甲斐はすでに畿内政権の服従下にあり、ヤマトタケルの東征における甲斐は畿内王権の東国平定に際した前進基地であったと位置づけている。また、磯貝は現在の酒折宮を伝承地とし、記紀において記される「酒折宮」に比定する点については慎重視している。 古代甲斐の前期国府所在地とされる笛吹市春日居町には「国衙」地名や物部神社や山梨郡山梨郷に比定される山梨岡神社の存在など古代甲斐の政治的中心地であったと考えられているが、原秀三郎は記紀における「酒折」の地を春日居町域から曽根丘陵にかけての広域に比定し、酒折宮伝承の歴史的背景を甲斐銚子塚古墳の築造された4世紀後半代としている。 原は「山梨」地名が甲斐以外でも遠江国や下総国において存在し、いずれも畿内の影響を受けた前方後円墳と物部氏伝承を伴う共通点を指摘し、酒折宮伝承における御火焼老人を畿内王権に服従した甲斐銚子塚古墳の被葬者と推測した。さらにその出自を物部氏とし、酒折宮伝承やヤマトタケルの東征の歴史的背景を遠江を拠点とした物部一族が甲斐・下総へと進出する過程を反映していると説明している。 しかし、宝賀は甲斐国に見られる祭祀に御室山や大神神社など三輪氏の系統が多く、浅間神社など甲斐国造と同じく彦坐王の後裔とされる但馬国造・日下部氏系統も見られ、東海方面に広がる穂国造や浜名県主と同様な習俗を保有していたことを指摘している。このため宝賀は原の説に反論し、甲斐国造の系統は三輪氏・磯城県主と同族で、国造系図からもヤマトタケルの東征よりも少し早い時期(垂仁朝)に塩海足尼の父祖が甲斐国へ到来したと唱えている。 また宝賀は塩海足尼が景行朝に甲斐国造に任命されたとする国造設置時期から、ヤマトタケルの東征時に塩海足尼はまだ老人になっていなかったと指摘し、酒折宮伝承の御火焼老人を東国諸国造の祖となった建許呂命であるとしている。この場合、甲斐最古の古墳に位置づけられる大丸山古墳の被葬者は、塩海足尼の父である臣知津彦命が想定されるとしている。なお江戸時代・明治時代の系図学者である鈴木真年は、著書『日本事物原始』の中で早くに御火焼老人を建許呂命であると指摘している。 大隅清隅は「酒折」の比定地域を盆地北縁から曽根丘陵にかけての広域とする原説に対し開発年代の相違を指摘し、地域区分や交通体系の点からも成り立ちがたいと反論している。また、磯貝説に対しては現在の酒折宮が所在する盆地北縁が6世紀代の開発地域である点から、酒折宮伝承も6世紀代の歴史的背景を反映している可能性を指摘している。 大隅は「酒折」の地名に関して、江戸中期に編纂された甲斐国の総合地誌である『甲斐国志』において、近世甲斐の地域区分である九筋二領の起源を酒折の地から分岐した諸街道としている点に注目し、さらに『古事記伝』において指摘されている「酒折」の語源を境界を意味するサカ(坂、界、境)と「重なり」を意味する「オリ」としている説から敷衍し、「酒折」地名は本来的には境界を意味する「坂折」が記紀に記されるヤマトタケルの饗応を記す伝承と関係して「酒折」に変化した可能性を指摘している。 また、平川南は過所木簡や正税帳などの記録資料から古代甲斐国の交通史的位置づけを検討し、古代甲斐は律令制下における東海道と東山道を結ぶ結節点として位置づけている。大隅は平川と同様に従来の磯貝・原説などが主に政治史的観点から酒折宮伝承の歴史的背景を考察しているのに対し、盆地北縁地域の開発や古代甲斐の交通体系の観点から位置づけを試み、盆地北縁地域を意味する「酒折」の地は諸道が交差する「衢(ちまた)」であった可能性を指摘している。
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