酒折宮を題材とした美術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 02:35 UTC 版)
江戸時代前期には土佐派の土佐光起(1617年 - 1691年)が「酒折連歌図」を描いている。年代不詳、掛軸、絹本着色。光起の落款と白文方印がある。酒折宮伝承に基き、祠の前で馬を引く日本武尊と連歌が描かれている。 江戸後期には天保12年(1841年)に浮世絵師の歌川広重が甲府道祖神祭礼幕絵制作のため甲府城下を訪れ、旅日記の『甲州日記』に多くの甲斐名所のスケッチを記している。この中に酒折宮を描いた図があり、右頁には勝沼宿付近とみられる風景と葡萄の葉が描かれ、左頁には酒折宮の社が描かれている。 江戸期には酒折宮は背後に所在する巴山(伴部山)とともに名所として知られ、嘉永4年(1851年)の『甲斐叢記』に拠れば落石により山肌に巴形が現れ、「巴紋」と称されていたという。嘉永元年(1848年)の歌川国芳『甲斐名所寿古六』では巴紋が現れた巴山を背景にした酒折宮が描かれている。 また、同じく江戸後期には中林竹渓(なかばやしちっけい、1816年 - 1867年)が「酒折宮図」を描いている。「竹渓」の落款、「成業」「紹」の白字方印がある。甲府商家の大木家資料(大木コレクション)として伝存している。樹木に覆われた写実的な鳥居が描かれ、連歌は記されていない。竹渓は名古屋出身の南画家で上方で活躍しているが、甲府の大木家近郊に居住していた南画家の竹邨三陽(たけむらさんよう)は名古屋に遊学した際に竹渓に師事しており、大木家資料にも三陽作品が存在する。このため、本図も三陽を介して大木家に所蔵されたと考えられている。
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