身体論を巡る議論とは? わかりやすく解説

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身体論を巡る議論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 09:18 UTC 版)

身体論」の記事における「身体論を巡る議論」の解説

物心二元論心身問題」も参照身体」をこのように低く位置づけるきっかけになったのは、十七世紀フランス哲学者デカルト掲げた物心二元論であった当時哲学体系砂上の楼閣にしたくないと考えていたデカルトは、あらゆるものを疑うことを始めた。そして、あらゆるものを疑っている「私」だけはたしかに存在するということに気がついた(「我思う、ゆえに我あり」)。疑っている(考えている)「私」という存在と、その「私」感覚でとらえる「私」以外の存在とのリアルさ違いから、デカルトは、世界が「精神」と「物質」に分けられる考えた。そして、空間に場所をとらない精神に対して、「身体」は、空間に場所をとるというその特質から、「物質」と位置づけられた。さらに、デカルトは「精神」を、人間だけがもつものとして、「物質より高く位置づけたので、当然の結果として身体」は、「精神」より低く位置づけられることになった。 それでも、デカルトは、「精神」と「身体」の相互作用無視できず、脳のなかにある松果腺両者結びつくとして、その二元論色を弱めたが、この二元論から出発したともいえる「近代科学」は、自然研究驚異的な成果に目を奪われ、本来「主体」として中心に論じられるべき「精神」を次第棚上げしていき、「身体」と切り離された「物質ばかりに目を向けるようになったまた、近代哲学は、「精神」より低く位置づけられた「身体」を大きな問題として取り上げなかった。 「身体」は「物質」のひとつであるという考え方十八世紀入ってますます強まり、ド・ラ・メトリの「人間機械論」のように、人間の「身体」を複雑で精巧な自動機械のように見なす考え方まで登場する人間の手が外化したものが道具であり、足が外化したものが車輪であるという、人間の「身体」が外化したものを「技術」と捉える(今では批判さらされている)考え方も、こうした流れの中で出てきたものであるまた、近代科学に基づく近代医学分野では、病気を、あるいは身体組織トラブル考え治療とは手術薬物の投与によって、そのトラブル取り除くことであると考えようになった。これも、人間の「身体」をさまざまな身体組織組み立てられ機械のようにみなす考え方であるといえる近代医学は、身体の生理的組織機能心と切り離して研究する方向進んでいくことになる。 心身相関 こうした近代医学に、やがて「心身相関性」について研究する心身医学登場する。そのきっかけ作ったのは、精神分析学確立したオーストリア精神科医フロイトだった。「意識」による「無意識」の理解目指していたフロイトは、神経症ヒステリーが「無意識」のコンプレックス関係して発症することを発見した。このことは、身体的症状が心の状態と関係していることを示しており、「心身相関性」の存在明らかにしたといえる神経症心身症自律神経失調症のような心身相関性」が強いといわれる病気は、近年ますます増加している。また、人間の心を置き去りにした薬物投与が、多く薬害生むようになった一方で環境問題深刻化は、近代科学そのもととなった自然(=物質)と人間(=精神)を切り離して考える「二元論に対してその見直しを迫ることになったこうした動きから、「身体」を単なる物質」とみなす従来の「身体観」に対す不信感高まり哲学中心に新しい「身体観」を模索する動き活発になるはじめに立てられたのは、「身体」は本当に物質」かという問いであった。 間身体性 他人と違う自己存在するという近代的自我立場出発点としただけの知性では、自己他者のつながる世界問題対処できない。そこで世界客観性をもって存在するではなくそれぞれの主体性絡み合って自分と他人の間の共同世界として成立するのだという考え方登場したこのような事態を「間主観性(=共同主観性)」と言う間主観性とは、フッサールの用語で、相互主観性あるいは共同主観性ともいわれる。純粋意識内在的領域還元する自我論的な「現象学的還元に対して、他の主観他人自我成立明らかにするものが間主観的還元であるが,それは自我所属圏における他者身体の現出を介して自我転移移入されることによって行われる。 そしてさらに母子一体感没我抱擁にも見られるように、自己他者畢竟身体」によって根源的に結びついているのだから、根源的な間主観性とは、「間身体性」にほかならないという考え方生まれたメルロー=ポンティは、他人存在問題他人経験問題(すなわち間主観性問題)を、ワロン発達心理学や、ラカン鏡像段階理論手掛かりにとらえ直し、この問題を、いかにして自己他人他人として認め、関係を取り結ぶうになるかという形ではなくいかにして自己他人区別される自己として意識されるに至るかという形で立てることにより、新たな解決与えようとした。 暗黙知 詳細は「暗黙知」を参照 暗黙知とは、主観的言語化することができない知識言語化して説明可能な知識形式知)に対し言語化できない、または、たとえ言化して肝要なことを伝えようがない知識のこと。ハンガリー哲学者マイケル・ポランニーの提唱した概念具体的に自転車乗り方知人の顔の区別などがある。いずれも自転車乗りこなすことや顔を区別することは可能であるにもかかわらずどのように自転車操作するのか、どのように他の顔と区別するのかを明示的に言葉で語ることはできない。そこでポランニーは「自転車乗れること」や「顔を区別できること」を「知っていること」と見なし、その意識下認識暗黙知呼び形式知背後存在する知識位置づけた。

※この「身体論を巡る議論」の解説は、「身体論」の解説の一部です。
「身体論を巡る議論」を含む「身体論」の記事については、「身体論」の概要を参照ください。

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