評価、顕彰
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ジョン・ランドールとトニー・モリスによる著作 A Century of Champions は、ピンザを「偉大な(great)」ダービー馬とし、20世紀のベストイギリス競走馬15位に評価した。 タイムフォームはピンザを1953年のヨーロッパ最高レート137に評価した。 競走馬に因んで機関車に命名するロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道の伝統に則り、1961年6月22日にイギリス国鉄の55形ディーゼル機関車「デルティック」のD9007号(のちの55 007号)がピンザと名づけられ、1981年12月31日まで運行された。
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評価・顕彰
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1946年秋に満州より引揚帰国した岡田桑三は、渋沢敬三に南方熊楠顕彰事業開始を働きかけ、およそ1年後の1947年10月、熊楠と親交のあった杉村楚人冠の子息で朝日新聞記者であった杉村武の尽力で、朝日新聞社会議室で渋沢の呼びかけによるミナカタソサエティ準備会が開催され、渋沢が会長に、岡田が代表幹事に指名された。昭和天皇が、1948年に渋沢に熊楠の標本の現状を質したことも、ソサエティによる戦後初期の顕彰活動にはずみをつけた。ソサエティによる活動成果には、乾元社版「南方熊楠全集」の編纂・刊行と「ミナカタ・クマグス展」1951年の開催が挙げられる。 1962年(昭和37年)5月、白浜町を行幸した昭和天皇は御宿所の屋上から神島を眺めて御製「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ」を詠んでいる。これは、昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌であった。この歌碑は、白浜町の南方熊楠記念館のある番所山に建てられている。 1965年(昭和40年)4月、白浜町の絶景の地である「番所山」に、熊楠の娘婿である岡本清造(日本大学経済学部教授・水産経済学者)や地元関係者の尽力により「南方熊楠記念館」が開館、主要な遺品、資料が展示されている(運営は公益財団法人南方熊楠記念館)。 1980年代に入り南方再評価の動きが生じ、1987年(昭和62年)地元和歌山県田辺市では、熊楠の業績を顕彰し、あわせてその終の栖となった旧邸を保存することを目的として、1987年(昭和62年)6月に「南方熊楠邸保存顕彰会(現・南方熊楠顕彰会)」が発足、1989年(平成元年)から募金活動を展開した。田辺市は、顕彰会が集めた寄附金とふるさと創生資金を基金として積み立て、その利息を財源として邸内の資料の調査研究(南方熊楠邸資料研究会)や整理保存、南方熊楠賞の制定・実施、南方を訪ねての開催、南方邸の公開等、熊楠の業績を顕彰する事業を南方熊楠邸保存顕彰会とともに官民協働で実施した。2000年(平成12年)に長女文枝が亡くなった後、その遺志によって旧邸と蔵書・資料はすべて田辺市に遺贈された。これを契機として、熊楠の遺産を恒久的に保存し、その思想および学問活動に関する調査・研究を行うとともに、その成果を発信するための拠点として旧邸の隣地に南方熊楠顕彰館を建設、旧邸を熊楠存命時のすがたに改修した。その建設・改修資金には基金が充てられた。なお、熊楠没後邸内に残されていた資料は、遺族の段階で、一部が南方熊楠記念館に、高等植物標本を除く植物標本は国立科学博物館植物研究部に移管されたが、高等植物標本とほとんどの蔵書・資料は南方熊楠顕彰館が引き継いでいる。 出生地和歌山市では、橋丁の生誕の地に南方熊楠の胸像を建てている。 1990年に週刊少年漫画誌である『週刊少年ジャンプ』において、岸大武郎により『てんぎゃん -南方熊楠伝-』というタイトルで、熊楠の半生がその奇行・暴れぶりから研究現場での苦闘まで鮮やかに漫画化されたが、雑誌の購買層には合わず、短命漫画となった。なお、当作品は一部完(熊楠がイギリス留学に旅立つ)という形で連載を終えているため、岸大武郎は留学してからのプロットも構想済みである。しかし、現在は版権の関係で連載を再開することはできないため、未完のままとなっている。 2017年は南方熊楠生誕150年となり、田辺市は熊楠の功績をたたえ名誉市民の称号を贈ることとなった。
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