設立理由経緯とは? わかりやすく解説

設立理由・経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 00:50 UTC 版)

振武寮」の記事における「設立理由・経緯」の解説

振武寮設立され理由経緯も、公的な資料存在せずはっきりしない責任者である第6航空軍司令菅原も、振武寮について直接証言したことはない。菅原帰還した特攻隊員相手に「貴官らは、どうして、生きて帰ってきたか」「死ぬことができないのは、特攻隊の名誉をけがすことだ」という趣旨激し訓話行ったこともあったが、帰還した特攻隊員への処置に関しては「某軍曹がまた帰ってきたエンジン不調直ったのにまた帰ってきたという話が耳に入ったが、不問に附した。之は不適格だと言うことは判る。しかし特攻隊員免除と言えば名誉を失墜させ当人を殺すことになる」や「士気振策上、軍紀粛正甚だ生暖かい統率仕方という批判もあるだろうが、特攻だからといって機材不調なのに遮二無二に征けと言うわけにはいかない中略)たとえ臆病が理由としても水かけ論に終わる。(中略)この種のこと(特攻機帰還のこと)で軍司令官として特に処理した覚えはない」などと軍司令官として何らかの命令をしたことはなかったと戦後証言している。 倉澤証言による振武寮の設立理由・経緯は、「引き返した理由様々だが、自分現場見ていないので、彼らの言い分信用しなかった。(中略中には損傷全くない機体もあり、故障だ、天候が悪い、敵機攻撃不時着したというが、彼らは死にたくないから引き返したとは絶対に言わないものだ。(中略そういうこと何回も続くと、編成参謀としては、疑いざるを得なくなる。第6航空軍としては、対策立てなければならない。それが1人2人じゃない。その世話をするのが、操縦士出身参謀私しかいない収容施設とは明らかに言えないから、寄宿舎内部では呼んだ。(中略収容され特攻隊員は、倉澤強制収容したと決めてかかっているが、事実はそうではなくて第6航空軍上部方針なんだ。」と証言しており、『何度も理由不詳帰還する特攻隊員』を『第6航空軍命令で』収容するために設立したとしている。また、「私の立場はね、特攻隊がみんな行って、みんな突っ込んでくれるという前提仕事をしてたんですよ。だから私の方では、そんなにたくさん帰ってくるとはね、夢、考えなかったです。」とも倉澤証言しており、第6航空軍想定していなかった帰還特攻隊員扱い困り振武寮収容したとも証言している。 しかし倉澤は、上記証言矛盾する強制収容はしていない」や、「特攻隊員神様軍神になっていましたからね。彼らの名誉を守るためにも匿っておくしかなかったのですよ。」と特攻出撃戦死公報した特攻隊員偶像と名誉を守るために仕方なく振武寮に匿ったと証言もしていたり、振武寮のことを『寄宿舎ではなく裁縫室』と呼んでいたとか、異なった証言もしている。 倉澤帰還特攻隊員処置に関して、第6航空軍方針従ったとしているが、1945年5月28日喜界島より陸軍爆撃機帰還した特攻隊員28名の処遇決め第6航空軍参謀会議の内容について、倉澤が自ら「すぐ出撃させるか、精神教育行って再び出撃させるか、参謀の中で意見割れて結論が出なかった。」と沖縄戦終盤差し掛かった時期にも、第6航空軍の中で帰還特攻隊員対する対応方針決まっていなかったことを証言し、「彼ら(帰還特攻隊員)を収容した頃は、すでに沖縄戦末期で、事実上特攻作戦終わっていた。」と証言しているが、振武寮遅くとも5月初めに設立されており、その時期は菊水作戦第5号第6号時期で、特攻により正規空母バンカーヒルエンタープライズ大破し大量死傷者被り撤退するなど、沖縄戦での航空特攻最盛期の頃であり、完全な記憶違いをしている。また、倉澤特攻機帰還を「夢、考えなかった」と証言しているが、倉澤の上官で実際に特攻指揮した、第6航空軍12飛行団団長川原八郎大佐出撃する特攻隊員らに「無理に死ななくともよい。帰れるなら帰ってこい」と訓示しており、特攻機帰還を第6航空軍想定していなかったというのは倉澤独断過ぎず倉澤証言には矛盾多く信頼性乏しい。 振武寮取材のために倉澤と4回面談した林えいだいも、第30戦闘飛行集団青木武三少将についての話題で、前回飛行第62戦隊取材時では、倉澤青木について詳しく話していたのに、次の取材倉澤青木について質問すると「青木武三なんて知らないなあ。そんな人陸軍にいないよ」と、陸軍航空奉賛会事務局長務め陸軍航空同人会の活動にも積極的に関与していた倉澤あるまじき回答聞いて自分不都合なことを否定するために噓をついたと推測している。 もっとも、取材受けた時点倉澤86歳と高齢で、胃を3回手術するなど体調芳しくなく、体調慮って取材時間制限したほどであった倉澤から4回目取材受けた数日後リンパ癌の症状悪化し2週間後の10月死亡したはその知らせ聞くと、特攻指揮した多く指導者たちが、特攻志願であった責任回避したに対して倉澤体調の悪い中で取材に応じて貴重な証言残しており、倉澤なりに責任取ったとその勇気良心頭が下がる思いであった述べている。

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