著名な捕虜
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カール・ユーハイム - ユーハイム創業者 アウグスト・ローマイヤー - ローマイヤ創業者 ハインリヒ・フロインドリーブ(ドイツ語の正しい発音はフロイントリープ) - フロインドリーブ創業者 フリードリヒ・ハック カール・ヤーン - ソーセージの製法を伝えた。 ヘルマン・ウォルシュケ - ホットドッグを日本で初めて売ったとされる。 ハインリッヒ・ハム - ワイン醸造技師。戦争前にワイン醸造の指導のため日本に招かれていた経歴を持つ。 ヨハンネス・ユーバーシャール - 日本研究者 カール・フォン・ヴェークマン - 日本研究者 アルフレート・マイヤー=ヴァルデック - 膠州湾租借地総督 ヘルマン・ボーナー(ドイツ語版) - 日本研究者 アドルフ・ハース(ドイツ語版) - ベルゲン・ベルゼン強制収容所所長
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著名な捕虜
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「スタラグ・ルフト III」の記事における「著名な捕虜」の解説
スタラグ・ルフト IIIには著名な軍人達が収容されていた。ニュージーランド空軍(RNZAF)のフィル・ラマソン少佐は、当初ブッヘンヴァルト強制収容所でも収容されていた168名の連合国軍航空兵員の先任士官であった。スタラグ・ルフト IIIで7カ月以上を過ごしたチャールズ・サンドマン ジュニアは、入所時に190 lbp あった体重が出所時には125 lbp になっていた。サンドマンは、日記に厳しい冬と米赤十字社から送られてきた食料の確保に苦労したことを記している。 北アフリカで米第319爆撃隊の指揮官だったデイビッド・ジョーンズは、2年半の間スタラグ・ルフト IIIに収容されていた。ジョーンズの伝記によると彼は「ハリー」トンネルの掘削の期間これを指揮していた。1942年初めにジョーンズは、1941年12月の真珠湾攻撃とその後のアメリカ本土砲撃の報復として実施されたドーリットル空襲に参加していた。航空殊勲十字章を受賞したUSAAFのローバート・ポリッチ シニアは、後に2008年のミネソタ・グレーテスト・ジェネレーション(the Minnesota's Greatest Generation)の短編映画祭に参加した短編映画『レッド・リーダー・オン・ファイア』(Red Leader on Fire)に採り上げられた。 「ヘラジカ・ミラー」("Moose Miller")と綽名されるカナダ人のゴードン・ミラー(Gordon Miller)大尉は、ドイツ軍の銃口下で1日の掘削分の土を隠した跳び箱を躓きもせず毎日出し入れするのを手伝った。ミラーは破損したビッカース ウェリントン機を飛行中に修理し、搭乗員を無事にパラシュート脱出させた功で航空殊勲十字章を受賞した。 カナダ空軍のジョージ・ハーシュ(George Harsh)大尉は、大脱走の実行委員会の一員で収容所の「保安将校」("security officer")であり、脱走の少し前にスタラグ VIII-Cに移送された19名の「容疑者」の中の一人であった。1910年にジョージア州の裕福で著名な一家に生まれたハーシュは、医学生時代の1929年に行商人を快楽殺人したことを告白して終身刑を宣告された。彼は緊急の虫垂切除術を行って囚人仲間の命を救ったことにより、ジョージア州知事のユージン・タルマッジは1940年11月にハーシュの仮釈放を認め、最後には完全に赦免された。その後ハーシュは尾部銃手としてカナダ空軍に入隊し、1942年に撃墜された後でスタラグ・ルフト IIIに送られた。1971年に彼は自伝を出版し、これはドイツ語とロシア語に翻訳された。 スタラグ・ルフト IIIの収容者の中には芸能界で著名な経歴を辿った者もいた。英国の俳優ルパート・デービスは収容所内の劇場で上演された作品で多くの役を演じた。彼が演じた最も有名な役はBBCで1960年から1963年にかけて52話が放映されたメグレ警部・シリーズの『メグレ』と映画『寒い国からきたスパイ』でのジョージ・スマイリー(George Smiley)役であろう。俳優のピーター・バターワースと作家のタルボット・ロズウェルは収容されたスタラグ・ルフト IIIで友人となり、後に映画『キャリー・オン』で共に仕事をした。英領ガイアナ生まれで歌手のサイ・グラントは英空軍で大尉で2年間の捕虜生活を送ったが、その中にはスタラグ・ルフト IIIに収容されていた期間が含まれていた。戦後にグラントは法廷弁護士の資格を取得したが、歌手、俳優、作家になった。グラントは英国のテレビで初の黒人の常連出演者となり、BBCの番組『トゥナイト』で南国のカリプソを歌っていた。米国で最初の著名な天気予報士となったウァリー・キーナンもこの収容所にいた。 スタラグ・ルフト IIIには政治の世界で頭角を現した捕虜もいた。3年以上捕虜だったジャスティン・オバーンは、34歳でタスマニア州選出のオーストラリア元老院議員となり、元老院議長を務めた。作家で政治学を教えるバージル・チャブ博士はドイツ上空で撃墜されてから15カ月をこの収容所で過ごした。ウェールズの保守党議員とエドワード・ヒース政権で閣僚を務める政治家の経歴を経た後にトーマス卿となったピーター・トーマスは、スタラグ・ルフト IIIを含め4年間の捕虜生活を送った。 歴史の記録という点で重要なことは、オーストラリア人ジャーナリストのポール・ブリックヒルが1943年から開放されるまでの間スタラグ・ルフト IIIに収容されていたことであった。1950年にブリックヒルは初めて『大脱走』に関する包括的なものを書き、これは後に有名な映画となった。続いて映画『殴り込み戦闘機隊』(原題:Reach for the Sky)で描かれたダグラス・ベーダーの伝記や第617「ダムバスター」飛行隊の活躍に関する本を著した。エーデル・ダムの爆撃を成功させた「ダムバスター」の一員であった英空軍のレイ・グレイソン(Ray Grayston)大尉も1943年から1945年までスタラグ・ルフト IIIに収容されていた。
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