英連邦の自治領と世界大戦
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「ニューファンドランド島」の記事における「英連邦の自治領と世界大戦」の解説
詳細は「ニューファンドランド (ドミニオン)」を参照 ニューファンドランドおよびその軍隊、ロイヤル・ニューファンドランド連隊はイギリス植民地の一員として米英戦争などでイギリス側に立ち戦った。ニューファンドランドは改革者で医師のウィリアム・カーソン(William Carson)をはじめ、エドワード・パトリック・モリス(Edward Patrick Morris)、ジョン・ケント(John Kent)らによる議会開催のための闘争を経て、植民地議会(今日まで州議会として続いている)を1832年に開いた。しかしこの新政府はカトリックとプロテスタントの違いにより分断され不安定だった。1842年、議会は任命制による立法委員会と合併し、さらに1848年に二院制に戻った。これ以後、自由主義運動の流れを受けて、後の議院内閣制につながる制度で自治権の強い「責任政府」(responsible government)作りへの運動が始まった。 1854年、ニューファンドランド植民地は責任政府の樹立をイギリス本国から認可された。これによりイギリス政府から任命された植民地総督は、地元の責任政府議会に従って活動するよう改められた。1855年の選挙で、プリンス・エドワード島出身のフィリップ・フランシス・リトル(Philip Francis Little)が保守党に対し多数を獲得し、リトルは最初の首相となった。1869年、投票によりニューファンドランドはカナダとの連合案を拒否している。1898年にはセントジョンズから島の北岸のガンダー、西部のコーナーブルックを通り、島の西端のチャンネル=ポルトー・バスクまでを東西に結ぶ狭軌のニューファンドランド鉄道が開通し、沿線の林業などの開発が進んだ(カナダへの加入後はカナディアン・ナショナル鉄道の運営となったが赤字体質が続いたため、1979年に子会社として分離されテラ・トランスポートとなったものの、結局1988年にニューファンドランドの鉄道は全廃された)。 1904年、英仏協商の一環として、フランスは1713年のユトレヒト条約以来権利を保有してきた島の西海岸、「コート・フランセーズ・ド・テール=ヌーヴ」を手放した。1907年9月26日には、ニューファンドランドは大英帝国の自治領ニューファンドランドとなり、事実上の独立国家となっている。ラブラドール地方の境界線については長年カナダ自治領ケベック州とニューファンドランド自治領政府の係争の元だったが、1927年に現在の境界が画定した。 第一次世界大戦は強力かつ持続的な影響を島の社会に与えた。ニューファンドランドはイギリスなどの側で参戦し、25万人ほどの人口のうち、5,482人が英連邦の兵士として海外に出た。1,500人ほどが戦死し2,300人が負傷した。1916年7月1日、ソンムの戦いの初日、フランス北部の激戦地ボーモンタメルで、ロイヤル・ニューファンドランド連隊の753人の兵士が塹壕を越えて突撃した。同日の犠牲者は多数に上り、翌朝点呼に応えたのはわずか68人だった。ニューファンドランドは若者の4分の1を第一次大戦で失い、次代を担う若い世代の著しい減少は、経済の衰退につながり、カナダとの連合という結果に帰結したという議論もある。現在でも、カナダ人の多くが建国記念日(カナダの日)を祝う7月1日に、ニューファンドランドでは戦死した若者たちの追悼を行っている。 ニューファンドランド自治領は第一次大戦の戦費や大恐慌で苦境に陥り、1934年に責任政府を返上し、ロンドンの直轄植民地に戻ることになった。同じくイギリス自治領を名乗り、後に英連邦王国として独立国となったニュージーランドやカナダなどと異なり、ニューファンドランドは結局独立した主権国家にはなれなかった。第二次世界大戦も大きな衝撃をニューファンドランドに与えた。特に、島の各地の岸辺に大西洋の兵站網を守るためのアメリカ軍の基地ができ、アメリカ合衆国の存在感が高まった(レンドリース法も参照)。基地とのかかわりで現金が大量に流通し、島の経済が貨幣で回るようになり、伝統的な行政組織は合衆国と深く結びつくようになった。
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