自然選択説の公表
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「チャールズ・ダーウィン」の記事における「自然選択説の公表」の解説
1856年のはじめに卵と精子が種を海を越えて拡散するために海水の中で生き残れるかどうかを調べていた。フッカーはますます種が固定されているという伝統的な見方を疑うようになった。しかし彼らの若い友人トマス・ハクスリーははっきりと進化に反対していた。ライエルは彼らの問題意識とは別にダーウィンの研究に興味を引かれていた。ライエルが種の始まりに関するアルフレッド・ウォレスの論文を読んだとき、ダーウィンの理論との類似に気付き、先取権を確保するためにすぐに発表するよう促した。ダーウィンは脅威と感じなかったが、促されて短い論文の執筆を開始した。困難な疑問への回答をみつけるたびに論文は拡張され、計画は『自然選択』と名付けられた「巨大な本」へと拡大した。ダーウィンはボルネオにいたウォレスを始め世界中の博物学者から情報と標本を手に入れていた。アメリカの植物学者エイサ・グレイは類似した関心を抱き、ダーウィンはグレイに1857年9月に『自然選択』の要約を含むアイディアの詳細を書き送った。12月にダーウィンは本が人間の起源について触れているかどうか尋ねるウォレスからの手紙を受け取った。ダーウィンは「偏見に囲まれています」とウォレスが理論を育てることを励まし、「私はあなたよりも遥かに先に進んでいます」と付け加えた。 1858年6月18日に「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」と題して自然選択を解説するウォレスからの小論を受け取ったとき、まだ『自然選択』は半分しか進んでいなかった。「出鼻をくじかれた」と衝撃を受けたダーウィンは、求められたとおり小論をライエルに送り、ライエルには出版するよう頼まれてはいないがウォレスが望むどんな雑誌にでも発表すると答えるつもりですと言い添えた。その時ダーウィンの家族は猩紅熱で倒れており問題に対処する余裕はなかった。結局幼い子どもチャールズ・ウォーリングは死に、ダーウィンは取り乱していた。この問題はライエルとフッカーの手に委ねられた。二人はダーウィンの記述を第一部(1844年の「エッセー」からの抜粋)と第二部(1857年9月の植物学者グレイへの手紙)とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成の共同論文として1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で代読した。 ダーウィンは息子が死亡したため欠席せざるをえず、ウォレスは協会員ではなく かつマレー諸島への採集旅行中だった。この共同発表は、ウォレスの了解を得たものではなかったが、ウォレスを共著者として重んじると同時に、ウォレスの論文より古いダーウィンの記述を発表することによって、ダーウィンの先取権を確保することとなった。
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自然選択説の公表
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「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」の記事における「自然選択説の公表」の解説
ウォレスは一度、短い間ダーウィンにあったことがあり文通相手の一人となっていた。ダーウィンは彼からの情報を自分の理論の補強に用いていた。ウォレスのダーウィン宛の最初の手紙は失われているが、ウォレスは自分宛の手紙を慎重に保存していた。1857年5月1日の最初の手紙では1855年のサラワク論文と10月10日付のウォレスの手紙にコメントしていた。ダーウィンは二人が類似した結論に達していること、自分の説は発表まであと二年はかかりそうだと告げていた。 1857年12月22日付の第二の手紙でダーウィンは生物の分布についてウォレスが理論を作ったことがどれほど嬉しいかを述べ、「熟慮がなければ素晴らしいオリジナルな観察もありません」と付け加えると同時に「私はあなたよりずっと先に進んでいると思います」と述べた。ウォレスはこの問題のダーウィンの意見を信じ、1858年2月に書いた小論『変種がもとの型から限りなく遠ざかる傾向について』を同封し、ダーウィンがそれをチェックして価値があると思われたらライエルに渡して欲しいと頼んだ。ダーウィンは1858年6月18日にその原稿を受け取った。ウォレスの小論はダーウィンの用語「自然選択」を使用しなかったが、環境圧力によってある種は近縁種から異なっていくという進化のメカニズムはほとんど同じものであった。ダーウィンは原稿をライエルに送り、手紙を添えてこう述べた。「これほどの偶然の一致をみたことがありません。もしウォレスが私の1842年の概要を持っていたとしても、これより良い要約を作ることができなかったでしょう!彼の用語さえ私の章の見出しにあります......彼は私に公表して欲しいとは言わないけれど、しかし、もちろん私はすぐに手紙を書いてどんな雑誌にでも発表すると言うつもりです」ダーウィンは息子の病気で困憊しており、この問題をライエルとフッカーに委ねた。彼らはウォレスの論文をダーウィンの先取権を示す未発表の著作と一緒に共同発表することに決めた。ウォレスの原稿は1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で、1847年にダーウィンがフッカーに個人的に明かした小論と1857年にエイサ・グレイに宛てて書いた手紙とともに発表された。 ウォレスは後にこの処置を知らされたが、満足して受け入れた。彼は軽んじられたり無視されていなかった。ダーウィンの社会的、科学的地位はウォレスより遥かに高く、ダーウィンなしで進化に関するウォレスの意見がまじめに採り上げられることはありそうになかった。ライエルとフッカーの処置はウォレスを共同発見者の地位に引き上げただけでなく、ウォレスをイギリス科学界の最高レベルの一員とした。 この発表の直後の反応は薄かった。翌1859年3月にリンネ学会の会長は前年には何の大発見もなかったと述べた。しかし同年11月の『種の起源』の出版によって重要性は明らかとなった。ウォレスはイギリスに帰国しダーウィンと会った。彼らは生涯友人でありつづけた。この二人の関係は長い間幾人かの研究家によって疑われてきた。1980年代には二つの本が、ダーウィンがカギとなるアイディアをウォレスから盗んで理論を完成させたと主張した。この主張は多くの研究者によって検討され、信用できないと結論づけられた。 種の起源の出版後、ウォレスはそのもっとも忠実な支持者の一人となった。ダーウィンは『種の起源』でミツバチの六角形の巣がどのようにして自然選択で進化しうるかを論じたが、ダブリン大学の地質学教授はこれを鋭く批判した。1863年にウォレスはこの批判に厳しく反論する短い論文を書きダーウィンを喜ばせた。1867年にはアーガイル公ジョージ・キャンベルによって書かれた自然選択説批判に反論した。1870年のイギリス学術会議の会合の後、ダーウィンに「博物学をよく知っている反対者はおらず、我々がしたような良い議論も行われていない」と不平を漏らした。
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