聖像破壊・理性の祭典・最高存在の祭典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 10:14 UTC 版)
「フランス革命期における非キリスト教化運動」の記事における「聖像破壊・理性の祭典・最高存在の祭典」の解説
「イコノクラスム」、「理性の祭典」、および「最高存在の祭典」も参照 非キリスト教化運動は聖職者個人の攻撃ばかりでなく、教会施設への暴力もみられた。1793年11月には全国レベルでミサが禁止され、多くの教会が閉鎖されて「理性の寺院」に転用された。モン・サン=ミシェルのように監獄に転用された例もあれば、倉庫や工場として使用される場合もあった。地元の人々はこうした非キリスト教化にしばしば抵抗し、辞任した聖職者たちに再びミサを執り行わせた。 革命初期におこなわれた教会の銀器や装飾品・祭具の没収が戦費調達の目的で激しさを増していき、造幣局に送られて溶解された。クリュニー修道院やサント=ジュヌヴィエーヴ修道院など由緒ある教会・修道院も破壊されて蔵書などの貴重な文化遺産が失われた。鐘楼の鐘も没収され、祖国フランスの防衛のための砲弾として改鋳された。聖人像はいたるところで首を刈られたり、引きずりおろされていた。イコノクラスム(聖像破壊)やヴァンダリズム(文化破壊)と称される「民衆的暴力」が顕現した。神を冒涜するかのような火刑やマスカラード(仮装行列)がしばしば民衆の熱狂を誘い、聖人像やローマ教皇をかたどった人形が火あぶりにされ、聖書やミサ典書、祭壇布といった従来神聖視されてきた諸物が焼かれ、聖職放棄僧の叙任状と一緒に火にくべられた。 ジョゼフ・フーシェによって1793年10月に発せられた墓地令では、共同墓地から十字架さえ撤去されて、死者を見守るのはただ「死は永遠の眠りである」と記された墓碑銘だけとなった。死生観さえも世俗化され、以後、死と葬送は私事の領域へと移っていくこととなる。共同墓地や教会から刈りだされた十字架は火刑の薪となった。告解の場もまた焼却されるか、哨舎に転用された。 非キリスト教化運動と並行して愛国的な市民祭典がさかんに催されるようになった。そのなかで有名なのが、「理性の祭典」と「最高存在の祭典」であった。 「理性の祭典」は、1793年11月以降、パリのノートルダム大聖堂を中心にフランス全土で開催された祭典であり、ジャコバン派独裁のなか、同派のなかでジャック・ルネ・エベールを中心とするグループ(エベール派)の主導でおこなわれた。国家規模で営まれた公式な祭典はエベールとアントワーヌ=フランソワ・モモロ(英語版)が監修し、企画や運営はピエール・ガスパール・ショーメット(英語版)があたった。11月10日、ノートルダム大聖堂の内陣中央に人工の山が設けられ、その頂上にギリシャ風の神殿が建てられ、その四隅にはヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキューといった啓蒙思想家たちの胸像が設置され、神殿のなかからは「自由と理性の女神」に扮したオペラ座の女優が現れるという趣向で「理性の祭典」が始まった。祝祭の少女たちは白いローマ風のドレスとトリコロール(3色)の帯を身にまとい、「自由と理性の女神」のまわりを動き回った。赤いボンネットをかぶった女神は、白いドレスと青いマントを身につけて、手には黒檀の槍を持ちつつ緑色に彩色された玉座に着座する。そこにアジテーターが「狂信はいまや正義と審理に決定的に席を譲った。今後司祭は存在せず、自然が人類に教えた神以外に神は存在しないであろう」というアナウンスで盛り上げると、革命賛歌の歌声が聖堂全体に響きわたった。やがて、群衆が狂喜乱舞する祝宴が繰り広げられるという、きわめて無神論的、ないし無政府主義的な性格の強いものであった。 マクシミリアン・ロベスピエールと公安委員会は、非キリスト教化した者たちこそむしろ革命の外敵であると弾劾し、独自の新しい宗教「最高存在の崇拝」を確立した。霊魂の不滅を信じる清廉潔白なロベスピエールからすれば、革命の祭典はこのような無神論的でアナーキーなものであってはならず、カーニヴァルのような前近代的民俗の再生ではなく、「新しい人間」すなわち共和主義的な公民を創生するための公教育の一環でなくてはならなかった。「単一にして不可分」の共和国の基盤は道徳性を備えた民衆のなかにこそあるというのがロベスピエールの主張であった。その道徳性なるものは信仰心なくして生まれないと考えるロベスピエールは、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と語ったといわれており、キリスト教の「神」に代わるもの、それが「最高存在」なのであった。こうして、1794年5月7日の法令に基づいて6月8日にテュイルリー宮殿やシャン・ド・マルス公園を中心に「最高存在の祭典」が挙行された。これはロベスピエール派による理神論的性格の強い市民宗教であった。すなわち、「理性の崇拝」を批判しながらも、カトリシズムの「迷信」を排除しようというのがロベスピエールの立場であった。しかし、「理性の崇拝」および「最高存在の崇拝」は両方とも短命であった。これらは「革命的宗教」ないし「革命的諸宗教」と呼ばれることがある。 自身の逮捕の6週間前、まだ権勢の絶頂にあったロベスピエールは上記のように新しい信仰を築くための式典を行った。しかし、彼が失脚し、革命広場(現、コンコルド広場)でギロチン刑に処せられたのは、それから間もない1794年7月28日のことである。
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