終局―血の週間とコミューン崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:10 UTC 版)
「パリ・コミューン」の記事における「終局―血の週間とコミューン崩壊」の解説
5月21日、ヴェルサイユ政府軍がスパイとなったデュカテルの手引きによって夜陰に乗じてサン・クルー門から侵入し始めてパリ市内に突入し市街戦を開始した。大砲陣地を迂回しながら各陣地を孤立させて背面から攻撃する戦術で一つ一つと各個に大砲陣地を攻略、15区、16区を瞬く間に占領して次第に国民衛兵を追い詰めていった。 23日にはヴェルサイユ軍はパリ西部から侵入して東部へと攻勢を加えていき、モンマルトルの丘を奪取してパリ中心街を占領していった。敵の圧倒的攻勢に対して、コミューン側は老人、子どもたちはバリケード造りのために路面の石材を剥がして大砲陣地の補強を手伝い、女性たちは武器を持って陣地群で必死の抗戦をしたほか、戦闘中の合間合間で負傷者の手当てや看病をして男顔負けの活躍を見せた。 しかし、このときにはヴェルサイユ軍は主要な高地を抑え、勝利条件をほぼ満たしたと言える。ヴェルサイユ軍は自軍が有利に立った以上、無駄な流血を避けて同胞に対して寛大な処置をとることもできたが、捕虜を次々と処刑し、ティエール政府黙認のもと市民を対象とした本格的な大量虐殺を開始した。 戦闘のさなか、コミューンは市街が敵に奪取され拠点とされるのを防ごうと、建物という建物に火を放ち、チュイルリー宮や大蔵省などの官公庁施設で火災が発生、続いてパリ全土で火災が起こった。なお、パリ市庁舎が焼失した際、パリ改造前に作成されていたパリの地図を含む数多くの歴史的文書が失われた。ヴェルサイユ軍は進軍を続けてフランス銀行や証券取引所、ルーブル宮を奪取した。報復としてコミューンの警視委員長リゴーは三名の政府側スパイを処刑した。リゴー自身は次の日、政府に捕えられその場で処刑された。 5月24日、コミューンは市庁舎の防備を諦めて東部の11区区役所に退避していった。コミューンは物量に勝るヴェルサイユ軍に敗北を重ね、武器弾薬も十分でなく、その組織的抵抗は不可能となっていた。衛兵中央は降伏もやむなしと考え、ドレクリューズをはじめとする代表団を派遣してヴェルサイユ軍に和を乞うたが、それも裏切りと見なした市民に阻まれ交渉もできない状況にあった。コミューン指導者たちは各々死を決意してそれぞれの死を選んでいった。死を悟ったドレクリューズは正装してシルク・ハットと燕尾服に身を包み敵軍に進み出て敵の一斉射撃を受け華々しい最期を遂げた。 また、ヴェルサイユ軍による虐殺は激化し、略式軍事裁判という形式を踏まえた意味のない処刑劇が繰り返された。「市民の生命は鳥の羽根ほどの重さもない。ウィ・ノンとを問わず、逮捕され銃殺される」という状況であった。この「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦により無差別殺人が発生して、老若男女を問わず多くの市民が殺傷された。市民もダルボア大司教、ドゲリー大司教、銀行家ジャッケルなどの人質を銃殺するなど、双方で不毛な殺し合いの応酬を重ねることとなった。ベルヴィール地区に残されたコミューンは軍事委員となったヴァルランとヴィレットによる最後の抵抗を試みていた。 27日、コミューンの最後の死闘は一方的な殺戮の様相を呈することになる。ヴァルランによる最期の降伏決断も「降伏などせず、闘いながら死ぬこと、これこそがコミューンの偉大さを形成」すると語るコンスタン・マルタンの反対で空しく覆された。最終的に、パリ侵入から最終局面までに3万人にのぼるといわれる戦死者を出してパリ・コミューンは瓦解、ペール・ラシェーズ墓地での兵士・市民の決死の抵抗と殺戮を最後に5月28日、パリ市全域は鎮圧され、コミューンは崩壊した。 戦闘終了後も、ヴェルサイユ政府軍が主張する「法と正義」による白色テロは収まらず、多数の国民衛兵および市民が即決裁判によりコミューン戦士は銃殺された。地中からはまだ息のある戦士たちの呻きが上がっていた。 ヴァルランは憔悴して腰をかけているところをヴェルサイユ側に逮捕され、クレマン=トマ将軍、ルコント将軍殺害の手先として投石と罵声による市中引き回しの辱めを受けた。リンチによって眼球が飛び出すなど瀕死の際にいたって、ヴァルランは「共和国万歳!コミューン万歳!」の最後の叫びを残して絶命した。その後、ヴァルランの遺体からは時計など身の回り品が略奪された。 他のコミューン戦士も戦闘を生き残った者は次々と逮捕され、狭い監獄にすし詰めに投獄されたのち放置され、初夏の暑さで弱った者から順次処刑されていった。裁判により370人が死刑となり、410人が強制労働、4000人が要塞禁固、3500人がニューカレドニアなど遠方の海外領土に流刑となった。関係のない市民も、その場にいたという不条理な理由で殺されたほか、ヴェルサイユ軍の将軍たちは捕虜に因縁をつけては処刑するなど、パリ全域はコミューン退治を口実とした虐殺の舞台と化していた。パリ・コミューンの制圧は、穏健的共和派や王党派にとっては「危険な過激思想を吹聴する叛徒」を排除する絶好の機会であった。逆説的に、この「功績」によりティエール率いる共和派は、農民、ブルジョワ、王党派から第三共和政という政治形態の支持を得られることとなった。
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