将軍殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:07 UTC 版)
6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招いた。『嘉吉記』によると、「鴨の子沢山出来」と招いたという。 この宴に相伴した大名は管領細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家の正親町三条実雅(正親町三条公治の父、義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行している。 一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、奥の方から鈍く轟く音が聞こえた。義教は「何事ぞ」とつぶやき、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と答えた。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者数十人が宴の座敷に乱入、義教を斬殺した。義教の首をとったものは安積行秀と伝えられる。 酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名・近習達の多くは即座に退出した。抵抗をしたのは、守護大名の大内持世、京極高数、近習の細川持春、山名熙貴、走衆の遠山某のみであったとされる。山名熙貴は即死、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去した。細川持春は片腕を斬り落とされ、正親町三条実雅は、献上された太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒している。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出した。 貞成親王は『看聞日記』において「赤松討たるべき御企て露見の間、遮って討ち申す(赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。)」「自業自得ノ果テ、無力ノ事カ。将軍此ノ如キ犬死ニハ古来ソノ例ヲ聞カザル事ナリ」と評している。
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