変前の三好氏と将軍
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この事件の目的・動機を考えるにおいては、事件前の三好氏の将軍との関わり方がどのようなものだったかが問題となる。 天文年間の末から永禄初年に至るまで、将軍と三好氏は武力衝突を繰り返した。また、天文20年(1551年)3月には、奉公衆の進士賢光が伊勢貞孝邸で催された宴席で長慶に斬りかかり負傷させるなど、長慶が命を狙われる事件がたびたび起きている。『細川両家記』などによれば、本領安堵をめぐる賢光個人と長慶とのトラブルを原因とする説とともに、将軍の密命を受けた賢光が長慶暗殺を狙ったのではないかという世上の見方もあったことがわかる。また同年5月には、長慶の岳父で河内守護代の遊佐長教が刺客に殺害される事件も起こり、当時これも将軍が黒幕と推測された。 しかし、永禄元年(1558年)末に双方は和解し、三好氏が将軍を支える協調体制が整えられ、変の起こる永禄8年(1565年)まで比較的平穏な時期が続いた。ただ、幕権強化を目指す将軍側はこの体制を従容として受け入れていたわけではなく、山田康弘は「雑々聞検書」から永禄2年(1559年)と思しき二月二十六日付の書状を引用し、当時三好氏や伊勢氏の間に不慮の雑説が流れていたことを紹介し、将軍側から三好氏・伊勢氏の分断工作や伊勢貞孝の孤立化を目指した工作が行なわれていた可能性も考えられると指摘する。織田信長の家臣太田牛一が記した『信長公記』も、将軍側が三好氏に対して謀反を企てたため殺害されたとする。 近年では、三好側には明応の政変(1493年)以来70年に及ぶ将軍家の分裂(足利義稙系と足利義澄系)を解消させる積極的な意図があったとする説や、三好勢による二条御所包囲は室町時代に繰り返されたいわゆる「御所巻」(大名らが将軍邸を包囲して政敵の失脚などを強要する行為)の一つに過ぎず、実際に訴訟(要求)を目的としていたところ、取次の際の齟齬あるいはその過大な要求と将軍側の強硬な姿勢から両者の衝突に発展してしまったもので、将軍殺害は当初の計画ではなかったとする説も出されている。もっとも、両説共に矛盾を抱えているとする指摘もあり、三好側の真意が何処にあったのかは確定できない。
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