禁止ルール以前の主な事例(1950 - 2002)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:42 UTC 版)
「チームオーダー」の記事における「禁止ルール以前の主な事例(1950 - 2002)」の解説
1958年モロッコGP この年、ヴァンウォールが最終的にはシリーズ11戦中6勝を挙げる強さを見せ付けた。しかし勝利が分散された結果、モロッコGP直前のドライバーズランキングはフェラーリのマイク・ホーソンにリードされており、ヴァンウォールのエースドライバーであるスターリング・モスがチャンピオンとなるためには優勝とファステストラップの両方を獲った上で、ホーソンが3着以下に沈むと言う過酷な条件があった。モスはこの条件の内、優勝の8ポイントとファステストラップの1ポイントの獲得に成功している。しかしホーソンが3番手に盛り返した瞬間、フェラーリがチームオーダーを発令。2番手に付けていたチームメイトのフィル・ヒルがホーソンに2位を譲ったことにより、ホーソンが1ポイント差で逃げ切り、チャンピオンを獲得した。この時の行為に関して、フィル・ヒルはレース後に「もし譲らなかったら、たとえ優勝していても即刻フェラーリをクビになっていただろう」と語っている。 1964年メキシコGP この年のチャンピオン争いは、BRMのグラハム・ヒル、フェラーリのジョン・サーティース、ロータスのジム・クラークの三つ巴となっていた。レースはチャンピオンになる為には優勝しかないクラークの大逃げで始まった。ライバルのサーティースは信頼性優先のマシンを選んだが故に、チームメイトのロレンツォ・バンディーニに遅れを取り、もう一方のライバルであるグラハム・ヒルは、バンディーニとの接触が響き後方で喘ぐ展開となった。このままレースが終了すればクラークの逆転チャンピオンとなる筈であったが、悲運にもファイナルラップ直前にマシントラブルが発生、ゴール寸前でストップしてしまう。この事態を知ったフェラーリは急いでチームオーダーを発動。これがギリギリで間に合い、2番手につけていたバンディーニがサーティースに2位の座を譲った結果、サーティースが僅か1ポイント差でチャンピオンを獲得した。 1981年ブラジルGP 前年ウィリアムズに加入したカルロス・ロイテマンは「ウィリアムズのマシンが7秒差以内でワンツー体制となった場合、エースドライバーのアラン・ジョーンズに勝利を譲る」という明確なナンバー2契約を結んでいた。しかし、ロイテマンはブラジルGPでこの契約を破り、ジョーンズを抑えて優勝した。これに怒ったジョーンズとロイテマンに確執が生じ、ライバルとなった2人のポイントは分散し、ウィリアムズはコンストラクターズタイトルは獲得したものの、ドライバーズタイトルはネルソン・ピケに奪われることになった。対立に嫌気が差したジョーンズはこの年限りで引退した。 1982年サンマリノGP FOCA系チームの大量欠場もあり、わずか14台でのレースとなった中、地元フェラーリ勢が1位ジル・ヴィルヌーヴ、2位ディディエ・ピローニの順で1-2走行を続けていた。3位以下とは大差がついており、かつコンストラクターズポイントに影響がないことから、チームは無用なバトルを避けて順位を保持するように指示。ところがピローニがこれを無視してヴィルヌーヴを追い抜き、最終的に優勝してしまう。これにより両ドライバーの確執は頂点に達し、次戦ベルギーGPでの悲劇の遠因となってしまう。 1982年フランスGP ルノーはチャンピオン争いをしているアラン・プロストを勝たせるという方針で母国GPに臨んだ。しかし、ルネ・アルヌーがこの指示を無視して優勝し、チームが曖昧な見解を示したため、プロストの方がフランスのメディアに糾弾された。アルヌーはこの年限りでルノーを去り、フェラーリへ移籍した。 1991年日本GP このレースではマクラーレンのエースドライバーであるアイルトン・セナのドライバーズチャンピオンがかかっていたが、それはレース序盤にウィリアムズのナイジェル・マンセルがリタイアしたことにより決定していた。この時チーム戦略により2位を走行していたセナが、トラブルが発生していたチームメイトのゲルハルト・ベルガーを追い抜きトップに立ったが、チーム内で事前にセナのチャンピオンを決定させるべくオープニングラップの1コーナを制したドライバーを優勝させるという取り決めをしていた。そのため、チームオーナーのロン・デニスは何度もセナにポジションを譲るように指示を出したが、セナはこれを無視し続けファイナルラップまでトップを走る。しかし最終的にはフィニッシュ直前にスローダウン、ベルガーにトップを譲った。この時セナは「真の勝者は誰なのか」を誇示する意味であからさまな譲り方をしたと言われ、譲られた形のベルガーは露骨な不快感を示した。 1992年フランスGP スタート直後に予選2位のリカルド・パトレーゼがPPのナイジェル・マンセルから先行、マンセルの激しいチャージをパトレーゼが抑える展開となる。しかし降雨により赤旗中断。レース再開後、中断前とは打って変わってパトレーゼはマンセルをあっさり先行させる。赤旗中断前後で余りにもパトレーゼの様子が違っていたため、チームオーダーが発令された、との観測が広がったが、当時のパトレーゼは無言を貫いた。後年パトレーゼはチームオーダーが出された事を認めている。 1993年フランスGP 自身初のポールポジションを獲得したデイモン・ヒルであったが、決勝ではアラン・プロストに先行を許し猛烈にチャージをかけるも、チームから「HOLD」のサインが出た途端にプロストから付かず離れずの走りに徹した。 1998年オーストラリアGP レース中盤に無線トラブルにより余分なピットインをしたことにより2位走行していたマクラーレンのミカ・ハッキネンが、ホームストレート上でチームメイトのデビッド・クルサードからトップを譲られた。このレースではマクラーレンが圧倒的な戦闘力で他チームのマシンを全て周回遅れで下すレースであったが、チームメイト同士でオープニングラップでの順位をレース結果で維持するようにレース前に取り決めていたという。しかし開幕戦であったことから批判の声が多くあがり、チームオーダーについての議論を喚起するきっかけとなった。 1998年ベルギーGP レース終盤ジョーダンのデイモン・ヒルとラルフ・シューマッハが1、2位を走行。ジョーダンにとってF1初優勝が懸かる状況である一方、ラルフも自身のF1初優勝を目指してヒルを猛追したが、チームは共倒れのリスクを避けるためにポジションキープを指示し、ワンツー勝利を達成した。表彰台で約1年半ぶりの勝利に笑顔を見せるヒルの横で、ラルフは不満げな表情を浮かべた。これが一因となり、翌年はウイリアムズへ移籍。 1999年ドイツGP ポイントランキング首位のミカ・ハッキネンがリタイアする荒れたレース展開となり、骨折したミハエル・シューマッハの代役としてフェラーリ入りしたミカ・サロがトップに浮上した。しかし、サロは自身の初優勝にこだわらず、チャンピオン争いをしているチームメイトのエディ・アーバインを先行させた。レース後、アーバインはサロの協力に感謝し、優勝杯をサロに譲った。 2001年オーストリアGP マクラーレンのデビッド・クルサードが優勝したレース。ラスト2周までフェラーリのルーベンス・バリチェロが2位を走行し、チームメイトのミハエル・シューマッハが3位を走行していたが、当時チーム監督をしていたジャン・トッドよりバリチェロにチーム無線で「Rubens, last lap. Let Michael pass for the championship. Rubens. Please. (ルーベンスよ最終ラップだ。チャンピオンシップの為にミハエルからパスされてくれ。ルーベンス、お願いだ。)」と伝えられる。バリチェロは命令通りファイナルラップでミハエルに自身をパスさせて3位でチェッカーフラッグを受けた。 このレースまでの獲得ポイントはミハエル・シューマッハ36ポイント、デビッド・クルサード28ポイントで仮にミハエルが3位に甘んじた状態でクルサードが優勝すればミハエル・シューマッハ40ポイント、デビッド・クルサード38ポイントとチャンピオンシップ争いで磐石な体制とは呼べない状態であった為、チームオーダーを使用した。このチームラジオは当時のF1中継の国際映像に映ってしまい、チームオーダーに対する論議を呼んだ。 2002年オーストリアGP フェラーリのルーベンス・バリチェロがポールポジションを獲得し、決勝レースも首位を独走していたが、最終ラップに不自然に減速し、スタート/フィニッシュライン直前で同チームメイトのミハエル・シューマッハに追い越された。優勝したミハエルは表彰台の中央にバリチェロを立たせ、優勝トロフィーもバリチェロに受け取らせた。 オーストリアGPでは2年連続の行為であり、チームが露骨なチームオーダーによってミハエルに優勝を譲らせたのは明白だったため、フェラーリはチームの運営やレース競技の在り方に対して世界中から大きな非難を浴びた。また、当時チーム監督であったジャン・トッド、同じく当時のテクニカルディレクターであったロス・ブラウン、そして優勝者のミハエル・シューマッハ自身もチームオーダーを正当化する発言をしたために物議を醸した。 10月28日、イギリスのロンドンにて会議が開かれ、先述のような事態を重大視したFIAはよりレースを活性化させることを狙い、個人競技としてのレースと見立てて 2003年のレギュレーションよりチームオーダーを正式に禁止した。
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