真の謀殺犯は?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 00:17 UTC 版)
「ウィリアム・ハーバート・ウォーレス」の記事における「真の謀殺犯は?」の解説
1960年代に、犯罪作家ジョナサン・グッドマン(Jonathan Goodman)は、調査して、プルーデンシャルでウォーレスとともに働いていた男性にたどりついた。1928年に年上の男が病気であったとき、この男性はウォーレスの取立の仕事のいくらかをした。ウォーレスには当時、年下のひとが、彼が取り立てた保険料をかならずしもすべて支払っていなかったという直接に入手した証拠があった。ウォーレスはこの情報をプルーデンシャルに伝えたように思われるが、しかし約1年後、この若者は、会社を退め別の保険事務所に加わった。ウォーレスはのちに、この男はクビにならなくて、疑惑を受けて辞めて、彼の父親が息子の不足額を埋め合わせたと聞かされた。彼は、ジュリア・ウォーレスをよく知っていた。グッドマンは、著『The Killing of Julia Wallace』のなかで彼に、名指しではなく、言及した。 1980年にニュース・エディターのロジャー・ウィルクス(Roger Wilkes)は、1981年前半の犯罪50年記念に放送するためにラジオ番組のために事件を調査した。彼は、グッドマンの被疑者がジュリア謀殺当時のアリバイを警察に述べていたことを聞知した。アリバイは、彼の婚約相手の女性であったが、しかしウォーレスの死のそしてふられたのち、彼女はウォーレスの弁護士に、アリバイはうそであったと誓おうとした。ウィルクスもまた、この男が、謀殺事件の夜に、地元の自動車修理場を訪れていたことを知った。彼は、高圧ホースを使って自分の車を洗ったし、そして自動車修理場の整備士は彼の手袋の1つが血液に染まっていることに気づいた。ウィルクスは、被疑者を捜し当てようとしたが、あいにく彼はわずか2、3ヶ月前に死亡していた。彼の名前は、リチャード・ゴードン・パリー(Richard Gordon Parry)で、ウォーレスの保険事務所の後進の被雇用者であった。 1931年にパリーは、22歳の甘やかされて育った若者で、手段の車を持ち、常に金に困っている暮らしであった。ウィルクスの事実は、パリーはウォーレスのその日の保険取得金はウォーレスの自宅の現金箱にあるだろうことを知っていたということである。彼はまたミセス・ウォーレスを個人的に知っていたから、ひとたびウォーレスが、非存在の住所に彼を遣る通話によって家からおびきだしたならば何かの口実をもうけて彼女を訪ねることはまったく問題ないであろう。保険取得金のためのジュリア・ウォーレス謀殺事件は、その日は現金箱にはとても少なかったからむだであった。パリーは、捜査の一部と見られたが、しかしガールフレンドによって偽のアリバイが述べられた。ウィルクスは、さらに先に行き、ラジオ・ショーでパリーの名前をあげ、そしてのちに書籍のなかで事件を発展させた。 パリーに対する訴えは、ウォーレスに対する訴えよりもはるかに強いし、そしてより説得力のある動機に帰している(最近の推理は、パリーには家に入りジュリアを殺害した未知の共犯者が居た可能性の周囲に集中している)。謀殺事件の夜にパリーの車から見つかった血液まみれの手袋の目撃証言があったが、その夜、彼が洗浄のために車を地元の自動車修理場に持って行った。車を洗った男の証言は、当時、警察によって入念に握りつぶされた。ウィルクスは、そのうえウォーレスには自身の妻を殺害する動機も理由も無い、そして事件を取り巻く知名度が警察にとにかく有罪判決を得させたために彼は訴えられた、と主張している。パリーは、犯罪との関わりを認めることなしに1980年に死亡した。しかしながら、ジョナサン・グッドマンとその友人リチャード・ウィッティントン=イーガン(Richard Whittington-Egan)が、1966年にロンドンの戸口の登り段で、向かい合ったとき、パリーはびっくりさせるくらい詳しい事件の知識を披露しそして事件に関連する目立たない目撃者らの死亡を知っていた。パリーは、グッドマンやウィルクスが捜査を始めるずっと前に、疑いをかけられていたかもしれない。1934年に、著者ウィニフレッド・デューク(Winifred Duke)は、殺人犯の名前に対して「ハリス」('Harris')と遠回しに言及したが、これは、Parryと同語源の、ありふれたウェールズのみょうじである。 2013年10月にサンデー・タイムズ・マガジンで、P・D・ジェイムズは、グッドマンとウィルクスの結論に言及しているが、しかしパリーは、「クォルトロー」("Qualtrough")通話を悪いいたずらとしてしたと推測している。彼女は、ウォーレスは実際に妻を殺害したと結論し、そして凶器はウォーレスが最初犠牲者を殴打した鉄の火かき棒であったこと、謀殺現場で見つかったマッキントッシュを最初脱ぎそして自らを覆い隠したこと、彼があの晩の出来事の再構成された時間線(timeline)内でそのようにすることは全く可能であることを推測した。彼女は、「結局、正義は行なわれた、人間の、誤りを免れない正義であっても」("in the end justice was done, if only the fallible justice of men")と信じている。しかしながら、この証拠の読みは、ウォーレスは十中八九、パリーの不正行為の経験を共通の雇用者に報告しなかったという、そしてパリーは当時もそののちもクビにされ(sacked)なかったという事実と対抗させられねばならない。ウォーレスがパリーを強制ないし恐喝するためにこの情報を利用しようとしたという証拠は、無い。 2017年、アン・カールトン(Ann Carlton)はその著『Penny Lane and All That Memories of Liverpool』で彼女の父 - 亡きサー・スタンリー・ホームズ(the late Sir Stanley Holmes) - が、ウォーレスが有罪判決を言い渡されたあと彼の求めで彼をその独房に訪ねたことを記述した。ホームズは、当時リヴァプール会社(Liverpool Corporation)に勤めるティーンエージャーで、ウォーレスのいつものチェスの対戦相手ミスター・ケアード(Mr Caird)の息子たちと親しかった。カールトンは、ホームズは、ウォーレスは自分が謀殺犯だと思う男性の名前を明らかにしたと言ったと書いた。それはホームズがリスター・ドライヴ・スクール(Lister Drive School)から知っている男であった。カールトンは、自分の父は、その男性は賢いがしかし悪党で、謀殺事件の数年後に別件で訴えられ有罪判決を受けて被告人席にいるのを見たと言ったと書いた。自分の父に会わせてくれと頼むことのウォーレスの動機を推理して、カールトンは、ウォーレスは、その都市の地方自治体体制が、彼ら自身のうちのひとりの息子で甥を守りたがったのではないかと疑っていたかもしれないと書いた。彼女は、自分は、両親が悪党と知り思った若者 - そしておそらくは謀殺犯 - はロジャー・ウィルクスという名前の男性であったと信じていると付け加えた。
※この「真の謀殺犯は?」の解説は、「ウィリアム・ハーバート・ウォーレス」の解説の一部です。
「真の謀殺犯は?」を含む「ウィリアム・ハーバート・ウォーレス」の記事については、「ウィリアム・ハーバート・ウォーレス」の概要を参照ください。
- 真の謀殺犯は?のページへのリンク