男女別学時代
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「近畿大学附属高等学校・中学校」の記事における「男女別学時代」の解説
また、高校は男女別学時代を経験しており、1963年度から初の女子生徒(普通科)を入学されるが、男子校を継続する形として、近畿大学内の高校男子校舎から1キロほど離れた附属中学校・小学校の校舎内に高校女子部を設置された。略称は『女子部』『近女(きんじょ)』高校入試関連雑誌などでは「男女共学」で記載されたもの、男子部・女子部各校舎間が約1キロほど離れていたため、男子部・女子部との間での交流も一切なく、入学式・体育祭・文化祭・卒業式などの全ての学校行事や昼食、校章デザインも全て男女別で行ってきた。なお、「校歌」のみ男子部・女子部一緒。当時の男子部の制服は黒のホック留め蛇腹の海軍型詰襟学生服を採用され、男子部校舎は「河内の学習院」と呼ばれていた。男子部の生徒数も毎年1200人以上入学しており、3学年合わせて3700人も在籍され、全国の男子校の高校として最大数となり、学校全体としての朝礼は行われず学年ごとに月に1度行われた。また女子部も毎年130人近く入学し、3学年合わせて380人近くとなり、男子部・女子部合計して4000人のマンモス校となった。男女別学時代にも学食も設置していたが、昼休みの学食での食事は男子部限定。通学路も男女別であり、男子部は近鉄大阪線長瀬駅下車して大学道りを徒歩、女子部は近鉄奈良線八戸ノ里駅下車から徒歩であり、男子部のほとんどの生徒たちは女子部の制服姿を見かけたことも一切なかった。また、春の選抜高校野球には男女別学として過去最多の6回(1967年、1971年、1975年、1988年、1989年、1990年)出場しており、応援席のみ男子部・女子部一緒で行っていた。応援席も男子部・女子部に分断されているとおり、男子部・女子部間に境界線を作り、半分が男子部、残り半分は女子部となっていた。試合が始まり、選手たちにエールを送るときも男子部限定で行われ、勝利した時の「校歌」は男子部・女子部共通であり、男子部・女子部一緒に大合唱した。応援に駆けつけたほとんどの男子部の生徒たちが女子部の制服姿を見かけたのは一度限りでもあった。また、応援席も全員男子部の日もあった。男女別学時代の「校歌」もシングルレコード化されたことがある。放課後、休日は部活(吹奏楽部、スキー部、水泳部など)に所属する女子部の生徒たちが男子部の校舎に来て、部活を通して男子部・女子部の交流の場となっていた。休日も男子部校舎内の学食も開店しており、学食での昼食は基本的では男子部限定であるが、部活で来る女子部の生徒たちも学食で昼食することも可能だった。 当時の制服(1980年代当時。1990年の男女共学移行当時も継続され、1992年度入学生まで) 男子部:男子校の伝統でもある詰襟。黒のホック留め蛇腹の海軍型詰襟学生服、左右両襟に襟章(校章)を刺繍、学帽あり。学帽を通学路にて着帽していないと、生活指導部より指導が入った。夏は、半袖の白ワイシャツに、ライトグレイのズボン。雨に濡れると変色する為、生徒達からは不評だった。 女子部:紺のダブルのブレザー(右ポケットに女子部のイニシャル「K.G.H.」を刺繍)、薄青のブラウスにエンジ色のネクタイ、ベレー帽あり。 当時の校章 男子部:大学の学園章に「髙」(1990年の男女共学移行当時も継続され、1992年度まで)。 女子部:大学の学園章に縦書きで「女髙」。 当時の昼食方法(放課後以外) 男子部:食堂あり(大学との併用の為、煙草の自販機があった) 女子部:教室内で持参の弁当のみ
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男女別学時代
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「明星中学校・高等学校 (東京都)」の記事における「男女別学時代」の解説
1923年、男子校として設立。その31年後の1954年に中学・高校各女子部を設立され、男女別学となった。 通学路も中学・高校各男子部・女子部一緒で、歩いている時のみ、男子部・女子部各生徒たちとの会話も可能だった。 中学・高校各男子部と中学・高校各女子部の校舎は同じ敷地内にあり、男子部・女子部との交流も一切なく、校舎内で男子部・女子部各生徒たちと会話することも校則で禁じられていた。 始業式・入学式・体育祭・終業式・修学旅行・卒業式などの学校行事も全て男女別で行われてきており、男子部限定の行事や女子部限定行事もあった。文化祭である明星祭のみ男子部と女子部が一緒に行われてきた。 校歌も男女別であり、男子部の校歌は「校歌」、女子部の校歌は「女子部の歌」。 男女別学時代当時の制服 男子部は男子校の伝統でもある詰襟 。濃紺でホック留め海軍型。好き嫌いが顕著に出る。ホックつけづらいから嫌いという声が目立つ。 女子部は胸もとにリボン(中学=えんじ色、高校=紺)をつけたジャンパースカート。2001年からは森英恵デザインのブレザーに改定する。 男女別学時代当時の制服は、2003年に中学校2006年に高校がそれぞれ共学へ移行以後も着用可能である。 男女別学時代当時の食堂 男子部・女子部別学時代当時にも食堂(中学・高校一緒)も設置しており、利用も男女別。月曜日・火曜日・水曜日は女子部、木曜日・金曜日・土曜日には男子部がそれぞれ利用。利用できない日は教室で持参の弁当を食べていた。
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男女別学時代
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「九州国際大学付属中学校・高等学校」の記事における「男女別学時代」の解説
高校には男女別学の時代があった。男子部・女子部の校舎は離れており、男子部校長と女子部校長がそれぞれおかれた。入学式・文化祭・体育祭・修学旅行・卒業式などの学校行事も異なり、同名の学校ながら別々の組織だった。ただし、男子部の野球部が春1回、夏2回、甲子園に出場したときは、応援席では男子部・女子部の生徒が一緒に応援した。応援歌も制定されているが、応援歌は男子部限定だった。2001年には、移転した九州国際大学跡地に男子部校舎が新築され、2005年には同敷地内に女子部校舎が増設された。以後、共学化に向けて別組織だった両部の交流は盛んになっていった。校歌も男女別(女子部校歌は現愛唱歌)であり、高校野球で勝利したときは男子部校歌を採用していた。 コース 男女別学時代、現在とは異なるコース、クラスが存在していた。 男子部 特別進学難関クラス(現 難関クラス) 特別進学クラス (現 特進クラス) 進学クラス (現 進学クラス) スポーツクラス (現 トップアスリートクラス)女子部 特別進学コース (現 特進クラス) 進学コース (現 進学クラス) 国際教養コース 制服 男子部は詰襟。ファスナー留めで紺の海軍型学生服だった。襟章(左:校章・右:エンジ色学年章)バッジを配置。夏服は白カッターシャツで設立以来からずっと続いてきた。八幡大学附属高校時代には制帽(四角い天井を白線で縁取った角帽)も採用されていた。 女子部は紺のブレザー(胸ポケットに「YFK」エンブレムを配置)に白ブラウス、夏服は白ブラウス。現校名へ変更後は胸ポケットのエンブレムも「KFK」に改め、赤いリボンを追加された。夏服はセーラー服に改定された。胸ポケットのエンブレム上部にそれぞれの学年の色(赤、青、黄)の組章バッジを配置。八幡大学附属高校時代、制帽(紺色のハット)も採用されていた。 校章 男子部は橘の花の上に縦書きで「付高」。 女子部は橘の花の上に縦書きで「付女高」。現校名へ変更後は「KFK」エンブレムに変更。 昼食方法 男子部・女子部各校舎に食堂も設置(勿論男女別)されたが、新校舎移転後は展望レストランに生まれ変わり、利用時間も男女別(男子部=11:40~12:20頃、女子部=12:40~13:20頃)だった。
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