田中逮捕と三木おろしの激化
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「三木武夫」の記事における「田中逮捕と三木おろしの激化」の解説
ロッキード事件の最中、三木を支えていた松野頼三政調会長らの説得を振り切り、自民党から河野洋平、西岡武夫ら6名が離党して新自由クラブが結党された。6月21日には三木と椎名が会談を持ち、三木体制下でロッキード事件の真相解明を進めることで合意した。この頃からロッキード事件による関係者の逮捕が始まった。椎名主導の三木おろしを乗り切った三木は、7月半ばには自らの手で総選挙を行う意欲を見せていた。 7月26日、選挙区である新潟県内の川で鮎釣りを楽しんでいた稲葉法相のもとに、法務省刑事局長から電話がかかってきた。電話の内容は田中前首相の逮捕状請求許可を求めるものであった、稲葉は起訴できるのか、公判維持は可能なのかを確認した上で許可を出した。稲葉は中曽根派であったが、派閥の長である中曽根にも知らせることなく、首相の三木にのみ田中逮捕の予定を知らせた。福田は三木から田中逮捕についての相談を受けなかったことに不快感を見せたが、大平、中曽根は連絡を事前に受けても困っていたと話していたという。 1976年(昭和51年)7月27日朝、田中前首相は逮捕された。田中の逮捕はいったん沈静化していた三木おろしを激化させた。福田は三木に対し、党幹部仲間の田中の首を切った血刀をぶらさげたまま政治はできないので、総辞職するように三木に勧めた。そしてとりわけ田中逮捕に憤りを見せたのが主を逮捕された田中派であった。田中派は田中前首相の逮捕により、もはや三木おろしがロッキード隠しと言われる筋合いが無くなったとして三木おろしへと走った。三木に対する憎悪や怨念に突き動かされた田中派は椎名に代わって三木おろしの中核を担うことになり、それにポスト三木を狙う福田派、大平派が同調し、更に中間派も争うように反三木の流れに加担した。三木はまず8月11日、12日と福田、大平と個別に会談を行い、反三木の流れを食い止めようとした。結局この会談の中で福田、大平とも三木を追い詰めることができなかった。 田中は8月17日に保釈されたが、目白の自宅に戻った田中の口から語られる三木に対する憎しみを、田中派議員たちは聞かされることになった。結局8月19日には田中、福田、大平の三派に中間派の自民党国会議員らが参加する、三木おろしを進める挙党体制確立協議会(挙党協)が結成された。挙党協は船田中を代表世話人とし、自民党全国会議員の三分の二以上が参加し、福田、大平を含む三木内閣の閣僚15名が参加した。 挙党協はまず両院議員総会の開催を要求した。三木執行部が要求を拒否すると挙党協側は8月24日に独自に両院議員総会を開催し、臨時国会召集前に党の刷新を行うことを決議した。しかし三木はあくまで退陣を拒否し、8月21日、23日の福田、大平との個別会談、そして24日、25日と行われた三木、福田、大平との三者会談の席でも、福田、大平の臨時国会前の退陣要求を拒否し、あくまで三木政権での臨時国会召集を主張した。なお、三者会談の席で三木は福田、大平の両名に「私が辞めた後、君たちのどちらが首相をやるのか?」と尋ね、福田、大平は「まだ決まっていない」と答え、三木から「後釜も決めずに私に辞めろというのか」と反撃された経過もあった。激しさを増すばかりの党内対立の中、中曽根幹事長らは妥協を模索するが、交渉は決裂した。もはや三木と挙党協との対決はのっぴきならない段階にまで陥っていた。 9月10日、三木はこれ以上臨時国会召集を遅らせることはできないとして、午前の閣議で10月に臨時党大会を開催することを盛り込んだ所信を表明した上で、夕方に改めて臨時の閣議を開催して臨時国会召集を閣議決定すると宣言した。三木は臨時国会を開催した上で衆議院解散を断行するつもりであった。しかし挙党協側の15名の閣僚は三木に激しく反発し、結局この日夕方からの閣議は5時間に及んだ。三木は15名の反対派閣僚を罷免して、三木を支持する5閣僚に3閣僚ずつ兼務させた上で臨時国会を召集し、解散に持ち込むことを検討した。実際に井出一太郎官房長官の指示で、閣僚罷免についての法律上、手続き上の問題を調べており、反対派閣僚を罷免した上での解散断行の手続きも進んでいた。しかし結局三木はその方法を選択することは無く、緊迫した閣議は井出官房長官の「まあ、お茶でも入れましょうや」のひとことで散会となった。 三木は15名の閣僚を罷免して臨時国会召集、解散というのはファッショと呼ばれる、民主主義のルールは守らなければならないとの考え方に基づき強硬策の採用を断念した。反対派閣僚を罷免した上で臨時国会を召集し、衆議院を解散して己の所信を国民に問うという方法を選択しなかったことについては、三木の政治家としてのバランス感覚を示すものとする見方と、強力な政治力が求められる強引かつ重い決断が必須な情勢であったのにもかかわらず、決断力不足という三木の政治家としての限界を示したものとの見方がある。 ところで自民党内の三分の二を越える反三木勢力に対峙せねばならなかった三木と同じくらい、反三木勢力側も重いジレンマに悩まされていた。もし三木が閣僚を罷免した上で臨時国会を召集して衆議院解散を断行した場合、総選挙では自民党の分裂が決定的となり、挙党協はロッキード隠し勢力と見なされて惨敗を喫しかねなかったからである。政権を失う可能性の高さを考えると、すでに首相を務め上げた上、ロッキード事件で逮捕されたことによる三木に対する怨念に取り付かれた田中や、領袖を逮捕されて三木に対する憎悪が強い田中派以外、このようなリスクを抱えながら三木退陣要求で突っ走り続けることには無理があった。特に福田、大平にとっては自らの首相への道を閉ざされかねず、強行一本槍の対応は取り得なかった。これは他の挙党協幹部にとっても事情としては同じであり、8月24日の両院議員総会の席では三木総裁解任を要求する田中派を抑えていた。結局三木と挙党協はぎりぎりのところで妥協が図られることになった。 9月11日の朝、中曽根幹事長と大平蔵相が会談し、中曽根幹事長から両院議員総会を開催し、首相から臨時国会では解散を行わない旨表明するとの提案がなされた。前日三木が反対派閣僚罷免という強硬策に出なかったこともあって挙党協側も妥協に転じており、大平は中曽根の提案を受け入れ、続く中曽根と福田の会談でも福田は中曽根案を受け入れた。福田、大平への根回しの後、三木、中曽根、保利、船田の会談が開かれ、三木と挙党協との激突による自民党の分裂は回避された。 9月14日に開催された両院議員総会の席で三木は、臨時国会で挙党的な協力体制のもと審議が進めば解散はないこと、10月に総選挙への体制固めを行うために臨時党大会を開催すること、そしてロッキード事件を党再生の契機とし、党の体質を一新することの三点を所信として述べた。結局三木は事実上解散権を封じられることになったものの、挙党協側から進退を強要されることは免れることができた。 田中前首相逮捕から約一週間後という、ロッキード事件の捜査が佳境に入った時期の8月4日の深夜、鬼頭史郎判事補が布施検事総長を名乗り、三木にニセ電話を掛けるニセ電話事件が発生した。検事総長を騙った鬼頭は、田中前首相の公判維持は困難であり、それよりも中曽根幹事長の疑惑が強まっていて、首相が指揮権を発動して捜査を止めるしかない状況であるとして、三木に指揮権発動の言質を取ろうとした。三木は鬼頭の策略に乗せられなかったが、結局秋になって事件が発覚し、鬼頭は判事補を罷免されることになる。また三木と挙党協側が激しい党内抗争の火花を散らしていた9月6日には、ソ連のミグ25戦闘機が領空侵犯した上、函館空港に強行着陸するベレンコ中尉亡命事件が発生した。ミグ25に乗っていたベレンコ中尉はアメリカへの亡命を求め、日本政府は亡命を認めた。またソ連が即時返還を要求したミグ25の機体は、米軍と共同で解体調査の上、ソ連側に返還した。
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