生体の捕獲から発表まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:29 UTC 版)
「イリオモテヤマネコ」の記事における「生体の捕獲から発表まで」の解説
1965年6月に戸川は、生態情報の収集や、完全な標本の入手、生け捕りを目標とし、再び高良とともに西表島を訪れた。この時に戸川らは、生け捕りをするために箱罠やマタタビを持ち込んでいる。しかし、猟師によって捕らえられるのは多くて年に1、2頭であったことや、生息個体数がさほど多くはないと推定していたため、戸川はヤマネコを生け捕りできることには期待はしていなかった。これに先立つ1965年5月5日に、島南部の南風見田の浜にある、通称“マーレー”と呼ばれる小さな滝の下で、遠足にきていた大原中学校の生徒がけがをして弱っているオスを発見し、引率の教諭が捕獲した。別の教諭がこの個体の皮をホルマリン標本に、頭骨や骨格を木箱に入れ学校の裏に埋め、後に戸川らにより掘り起こされ、この個体がイリオモテヤマネコのタイプ標本となった。その後も、由布島で砕けた幼獣の頭骨を手に入れ、今泉により復元されている。また、戸川はこの調査時に、イリオモテヤマネコよりも大きいオオヤマネコ(後述)の噂を聞きつけ、調査を行っている。戸川は帰京前に、ヤマネコに生体は100ドル、死体は30ドルなどと懸賞金をかけ、竹富町長や八重山毎日新聞の協力を得て、西表島の掲示板などで告知した。なおこの時、オオヤマネコにも生体には200ドル、死体には100ドルの懸賞金をかけている。この調査では、2体分の全身骨格、頭骨2つ、毛皮3枚などを持ち帰った。この毛皮の内1枚は大原中学校の学生らが捕獲した個体のもので、ヤマネコのものと鑑定されたが、由布島で手に入れたものは標本が小さく鑑定は保留され、残りの石垣島で手に入れた1枚はイエネコのものと鑑定された。 1966年1月に仲間川流域でイノシシ罠で捕獲されたヤマネコの死体が、琉球大学の高良のもとに送られているが、その後しばらくは捕獲されたという情報は入らなかった。1966年12月に仲間川中流域で猟師である黒島宏により、オスの成獣が生け捕られたが、これは直後に逃げられた。しかし、そのすぐ後に再び黒島が別のオスを捕獲した。同年1月15日には、仲間山付近でメスの若い個体が捕獲された。報奨金については国立科学博物館の庭園の修繕費を回すことになったが、捕獲した猟師や地元の人々は1頭に付き1000-3000ドル程度を期待していた。しかし、営林署長の説得により、日当及び礼金として予算内での謝礼金を支払っている。一方、時の竹富町長は日本政府南方連絡事務所や琉球政府に掛け合い、昭和天皇へこの2頭のヤマネコを献上し、西表島の名を広めかつ、産業開発の促進をすることを目的に、那覇市へと渡った。と同時に、竹富町役場は、琉球政府から飼育許可を得ていることを理由に、国立科学博物館職員の手からヤマネコを取り上げ、役場へと持ち帰った。結局、戸川の新聞社への働きかけや、今泉の文部省(当時)を通じた琉球政府や南方連絡事務所への働きかけにより、南方連絡事務所は天皇への献上手続きを拒否し、琉球政府は竹富町長を説得し、最終的に国立科学博物館へと運ばれることが決定した。 この2頭は、1967年3月20日に東京・羽田空港へと空輸された。翌日には今泉吉典宅にしばらく飼育され、発見者である戸川幸夫宅で国立科学博物館の委託を受け約2年間飼育され、生態が観察された。その後、国立科学博物館に移され生態が観察され、オスは1973年4月25日に、メスは1975年12月13日に死亡した。オスの皮は仮剥製に、血は染色体研究用に、その他の体は液浸標本に、メスは本剥製にされ、展示されている。 1967年5月に発行された哺乳類動物学雑誌の第3号・第4号で、ネコ科内でも原始的な分類群であるメタイルルス属 Metailurus に近縁な新属新種として英文で発表された。旧属名 Mayailurus は、前半の maya は生息地である西表島での方言でネコを意味し、-ailurus は古代ギリシャ語でネコを意味する。iriomotensis は「西表の」という意味である。和名は、今泉は発見者の戸川の名を取って、トガワヤマネコと名付けるよう提案したが、戸川はこれを辞退し、ツシマヤマネコに倣い発見地の西表島の名前を取って名付けるよう提案をし、高良の賛成もあって、イリオモテヤマネコと名付けられた。
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