現代的総合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 23:28 UTC 版)
モーガンのショウジョウバエ研究室でポスドク時代に研究を行っていたロシア人遺伝学者テオドシウス・ドブジャンスキーは遺伝学を自然の個体群に適用した最初の一人である。彼の研究のほとんどはショウジョウバエの一種Drosophila pseudoobscuraで行われた。ドブジャンスキーは皮肉めかして述べる:「ロシアは北極から亜熱帯まで様々な気候をもっている......研究室のやつらは自然の中の生物について何も知らないし、少しも知ろうとしない」。他のロシア人遺伝学者も同様に考えていたが、彼らの仕事は西側の研究者にはほとんど知られていなかった。彼の1937年の著書『遺伝学と種の起源』は集団遺伝学とフィールド研究のギャップを埋める重要なステップになった。それはフィッシャー、ホールデン、そして特にライトの高度に数学的な業績を他の人々にも理解しやすい形で提示することに成功した。その上、現実世界の個体群は初期の集団遺伝学が彼らのモデルで仮定したよりも遥かに遺伝的に変動しやすく、遺伝的に異なった周辺集団はより重要であることを力説した。ドブジャンスキーは自然選択が変化を引き起こすのと同じくらい、集団の遺伝的多様性を維持する方向にも働くと主張した。ドブジャンスキーは1920年代にロシアの遺伝学者セルゲイ・チェトヴェリコフ(ロシア語版)の研究に触れたことに強い影響を受けた。チェトヴェリコフは集団の遺伝的多様性の蓄積に劣性遺伝子が果たす役割を明らかにしたが、ルイセンコ説の高まりによって彼の研究は打ち切られ、公職追放されたうえ病を得て1959年に亡くなるまで不遇な生涯を送った。 エドモンド・フォードの研究はドブジャンスキーを補った。フォードの研究の結果として、ドブジャンスキーは彼の有名な教科書の第三版で強調を遺伝的浮動から自然選択に移した。フォードは自然の中で自然選択が働いていることを示そうとした実験的フィールドワーカーであった。彼は実質的に、生態遺伝学と呼ばれる研究分野を創設した。彼の自然選択に関する研究は、野生の蝶と蛾の個体群を対象としており、フィッシャーが立てた予測が正しいことを示した最初の例であった。彼ははじめて遺伝的多型を定義し、記述した。そして人間の血液型の多型が何らかの病気への耐性によって集団中で維持されるかも知れないと予測した。 エルンスト・マイヤーの総合説への重要な貢献は、1942年の『分類学と種の起源』である。マイヤーは異所的種分化の重要性を強調した。地理的に孤立した小集団はいずれ生殖隔離が起き、別種となる。彼は地理的隔離は本質的な分離メカニズムの必要条件だと考えており、現実に同所的種分化が起きるかどうかについて懐疑的だった。マイヤーはまた、ほかの全ての集団から生殖的に隔離されている単一の交配可能集団、あるいは潜在的な交配可能集団を種と見なす「生物学的種」の概念を提唱した。彼はドイツを離れアメリカに移住する前にドイツ人生物学者ベルンハルト・レンシュ(英語版)の影響を受けていた。 ジョージ・ゲイロード・シンプソンは1944年の『進化の速度と様式』で古生物学が総合説と互換性があることを示した。シンプソンの研究は、多くの古生物者が自然選択が進化の主要なメカニズムであると言うことに同意せず、しばしば強く反対したために重要だった。彼の研究は初期の古生物学者がネオラマルク説や系統発生説を支持する証拠と考えた直線的な進化の傾向(例えばウマの進化のように)が、厳密な検証に耐えないことを示した。その代わり、化石記録は不規則で、方向性が無く、分岐的であるという総合説の予測と一致する。 植物学者レッドヤード・ステビンズも総合説に重要な貢献を行った。彼の著書『植物の変異と進化』は1950年に発表された。数種の植物での交雑と倍数性の影響の研究は、植物学と総合説の両方を拡張した。 ジュリアン・ハクスリーはダーウィンの性選択を検討し、これはティンバーゲンらの動物行動学の先駆となったが、より大きな貢献は軽視されていた自然選択説の擁護と後進の教育、進化論の公共の理解のための普及活動にある。彼はエルトン、ハーディ、ダーリントン(英語版)、ビーア、フォードらを育てた。そして『進化:現代的総合』の執筆によって、様々な分野に広がる理論家を集結させた。
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