現代短歌の起点
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「短歌研究」1954年11月号誌上で、第2回短歌研究五十首応募の結果発表が行われた。第2回で特選となったのが寺山修司の「チェホフ祭」であった。寺山は12歳ないし13歳ころから短歌を詠み始めていたというが、情熱を持って短歌を詠むようになったきっかけとなったのが中城ふみ子の短歌作品であった。 寺山は「短歌研究」1954年12月号に、「火の継走」と題した入選者の抱負を述べている。 たとえば一つの<正義>の例として僕は「短歌研究」の勇気に帽子をぬごうと思う。僕に短歌へのパッショネイトな再認識と決意を与えてくれたのはどんな歌論でもなくて中城ふみ子の作品であった。 ふみ子の死を前にした不幸の演技性に富む作品と、青春のドラマに溢れた寺山の作品には大きな隔たりがある。しかし写実的、日常的な情景詠に沈滞していた歌壇の状況から見て、演技性に富むという面において両者の短歌はともに大きな飛躍であった。中井がふみ子、そして寺山に賭けたものはその大きな飛躍であった。後に中井は「中城ふみ子が体当たりで拓いた道」であり、ふみ子と寺山の短歌を「美の飛翔」であったと評価している。 やがて中城ふみ子は前衛短歌の歌人のひとりであるとの評価がなされるようになった。前衛短歌の歌人としては塚本邦雄、岡井隆らの名前が挙げられるが、ふみ子の短歌は前衛短歌の草分けのひとつであると見なされるようになったのである。そしてふみ子は短歌に変革をもたらし、現代短歌の起点となったと評価されるようになる。 中城ふみ子の登場は女流歌人の活躍の起爆剤となり、活性化の原動力となった。これは前述の前衛短歌の草分けの一つであるという点とともに、ふみ子の短歌が歌壇に与えた大きな影響であった。そしてふみ子の作品は同時代、後進の多くの歌人、とりわけ女流歌人たちに多大な影響を与えていく。馬場あき子は、ふみ子の歌をみんなで食いちぎり食いかじり、ついに血肉化してしまったと指摘し、岡井隆は中城ふみ子の短歌を、全国的に広がっている女性の歌の原型であると評価し、三国玲子は中城ふみ子の短歌が歌壇の広範囲に渡って影響を及ぼしていることを指摘し、ふみ子と対極にあると思っていた自らにも影響を与えているとしている。そして安永蕗子は中城ふみ子以降、女歌が大きく変わったことを指摘し、また安永自身、ふみ子の短歌作品に触発されて短歌を詠むようになったとしている。
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