戦後短歌の歩みと短歌研究の読者詠公募
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
「中城ふみ子」の記事における「戦後短歌の歩みと短歌研究の読者詠公募」の解説
戦後、短歌は外部からの激しい批判に晒された。いわゆる第二芸術論である。また終戦後の混乱の中、歌壇自体も混乱していた。1950年頃になって世情が落ち着きを取り戻してくると、歌壇もまた落ち着きを取り戻し、保守的・伝統重視の風潮が強まっていた。 そのような風潮に一石を投じたのが釈迢空であった。釈は「短歌研究」1951年1月号に論文「女流の歌を閉塞したもの」を発表した。論文の中で釈は、当時本流とされていた写生を重視するアララギ派中心の短歌の在り方に強い疑問を投げかけた。具体的にはポーズが目立つことが作品批判の言葉となっているが、逆に歌にポーズが無くなってしまっていることこそが問題であるとした。そしてアララギが女の歌を殺したと断じ、女性の短歌は写実的・現実的な詠みぶりに従ってしまっているため、結果として男性の歌人に負けてしまっているので、現実を発散させるポーズの復権が必要であると論じたのである。 釈とともに保守化、伝統重視の世界に留まり、動こうとしない歌壇の現状に怒りを深めていたのが中井英夫であった。中井は東京大学中退後、日本短歌社に入社して短歌雑誌の編集に携わっていた。中井の怒りの矛先はまず、平明な生活詠を良しとしている歌壇本流のあり方そのものに向けられた。平明な生活詠が良い短歌であるのならば、良き歌人とは健康的な常識人となる。「裡に深い暗黒の井戸を持たず、何を創ろうというのだろう……精神の無頼性をつゆ持つことなく、小心な身仕舞いのいい人格者が、何を人に語ろうというのか」中井は短歌の現状は文学の名に悖るものであると感じていた。 中井の怒りを更に増幅させていたのが、歌壇における新人のあり方であった。中井は短歌結社における新人はいわば「お習字」をさせられていると揶揄した。つまり先輩歌人の作風をそのままなぞるよう、学ばされているのである。そして先輩歌人の作風を会得した段階で新人として歌壇デビューを果たす。しかも始末が悪いことに、その新人たちは、「時代との相克」とか「清純な抒情」などといったもっともらしいうたい文句を唱えながら新しい短歌結社を立ち上げ、結社内で強い権力を振るってかつて自らが行ったような「お習字」をさせていると断じた。 1953年、歌壇の大御所であった斎藤茂吉、釈迢空が相次いで亡くなった。短歌界の喪失感は大きく、「歌壇は暗黒時代に入った」との論評も現れた。そのような中で、短歌界にもうひとつ大きな動きが始まった。角川書店が短歌雑誌「短歌」を立ち上げることになったのである。中井が所属している日本短歌社と比較して、角川は出版社としての規模が格段に大きかった。角川は執筆者に対して日本短歌社の5倍のギャラを出すとの噂も飛び交っていた。当時、中井は日本短歌社の短歌雑誌、「短歌研究」の編集長となっていて、編集長として何らかの対抗措置を考えねばならなくなった。中井は木俣修に助言を求めた。木俣は「広く読者から50首詠を募集してはどうか」とのアイデアを出した。これが「短歌研究」五十首応募を始めるきっかけとなった。 中井は五十首応募の撰者を専門歌人ではなく自らが務める決意を固めた、中井はまず前述の短歌結社の弊害を憂慮した。事実、「短歌研究」の一般読者公募の成功に触発され、ライバル誌の「短歌」も読者詠の公募を始めた。「短歌」は歌壇の大御所5名に撰者を委託したが、5名の撰者それぞれが自らの結社の所属歌人、つまり自らの弟子を最優秀者に推して譲らず、暗礁に乗り上げてしまうという事態が発生した。そして中井は優れた撰者の条件とは、胸中に決して満たされぬことのない黒い空洞を持っていることのみとの信念を持っていた。中井は、五十首応募を通じてまず中城ふみ子、そしてふみ子に続く寺山修司と、短歌史を揺るがし、現代短歌の起点ともなる逸材を発掘することになる。
※この「戦後短歌の歩みと短歌研究の読者詠公募」の解説は、「中城ふみ子」の解説の一部です。
「戦後短歌の歩みと短歌研究の読者詠公募」を含む「中城ふみ子」の記事については、「中城ふみ子」の概要を参照ください。
- 戦後短歌の歩みと短歌研究の読者詠公募のページへのリンク