戦後直後の捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/13 14:35 UTC 版)
「ヴィレム・ファン・マーレン」の記事における「戦後直後の捜査」の解説
対独協力者の捜査・逮捕を担当していたアムステルダム警察政治犯罪捜査部(PRA)は、1948年1月に隠れ家摘発の件でクレイマン、クーフレル、ミープの事情聴取を行った。三人ともファン・マーレンが隠れ家密告者ではないかという疑念を表明した。その理由としてあげられたのは彼が詮索好きな事、罠を仕掛けて誰かいるのか調べようとしていたこと、オットー・フランクの事を質問すること、SDと親しい関係にあるらしいこと、SDから鍵を預けられたこと、盗みを働いていることなどだった。 ファン・マーレン当人は同年3月に事情聴取を受けた。彼は密告について否定するとともに、疑念に対して次のように反駁した。「1943年から1944年にかけてパン屋や牛乳屋、八百屋などがしょっちゅう大量の食糧を届けてくることから社屋の中でなにか奇妙なことが進行しているという疑いは持っていましたが、ユダヤ人が匿われているという可能性には一度も思いいたりませんでした」「私がそんなこと(罠の設置)をしたのはあまりにも頻繁に物が盗まれるうえ、皆が私に疑いの目を向けていたからです。終業後に誰かが忍び込んでいる、そういう証拠を見せられれば私への疑いは晴れますから」「(アンネたちの逮捕の前に)私がケフ商会(隣の会社)の社員と、うちの社屋に匿われているユダヤ人のことを話題にしたという話は嘘です。あのユダヤ人たちが連行された後にはそういう話もしましたが」「手入れの後でヒース夫人から鍵をもらいましたが、それがSDの命令でなされたとは知りませんでした」「私がヒース夫人にSDと親しい間柄だからあんたは逮捕される心配をする必要はないなどと言ったというのは、全く事実に反します。それどころか私は友人の間では筋金入りの反ドイツ主義者として知られていたのです。」。 結局ファン・マーレンの主張を突き崩すほどの具体的証拠はなく、1948年11月、アムステルダムの特別裁判所はファン・マーレンを条件付き免責とした。条件とは3年間「戦争犯罪人監視局」の保護観察に付すというものだった(またその間は公職に就くことを禁じられ、また選挙権・被選挙権を停止される)。これは戦争犯罪人への扱いとしては最も軽微な物で、当時何万もの「対独協力者」とされた人々がこの処分を受けていた。 しかしファン・マーレンはこれに憤慨し、ただちに「告発された罪状は身に覚えがない」として不服申し立てを行った。そして5日後に治安判事は密告の事実は立証されなかったことを認め、ファン・マーレンを無条件免責とした。彼の疑いは公式にはこれで晴れたはずだった。
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