戦後統治への関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:23 UTC 版)
「ヘンリー・スティムソン」の記事における「戦後統治への関与」の解説
スティムソンはヘンリー・モーゲンソーによる、ドイツを脱工業化し小さい州に分割するモーゲンソー・プランに強く反対した。この計画は、ナチの戦争犯罪に対する責任の嫌疑がかかった者は誰でも追放か略式手続きによる投獄をすることも目論んでいた。ルーズヴェルトは当初、この計画に対して同情的だったが、スティムソンの反対に遭い、さらに計画が漏れて大衆の抗議を受けるに至って、彼は方針を転換した。こうしてスティムソンはドイツにおける米国の占領地域の全体的な統制を維持した。 モーゲンソー・プラン自体は決して効力を発することはなかったが、初期の占領に影響を与えた。スティムソンはルーズヴェルトに、ロシアを含めたヨーロッパの10ヶ国がドイツの輸出入と原料生産に依存しており、そしてこの「エネルギーと活力と進歩主義」の民族によって支えられている「自然の贈り物」を「幽霊領土」あるいは「塵の山」に変えるがごときことは想像も及ばないと強く主張した。 しかしながら彼が最も恐れたことは、あまりにも低い生活水準しか生めない経済状態のために、ドイツの人々の怒りが連合国に向けられて、その為に「ナチの犯罪とナチの教義と行為の邪悪さが曖昧になること」だった。 1945年の春にトルーマンに同様の議論を迫っただけでなく、ドイツの無条件降伏に伴う悲惨な分割占領の状況を見聞するに及び、ジョセフ・グルー国務長官代理(元駐日大使)の発議による日本の降伏の実質的な緩和を強く支持した。グルーの日米友好への願いのバトンを受けて、7月のポツダム宣言の起草にも影響力を行使した結果、8月に日本は国体(天皇制)を護持して降伏することができた。 弁護士でもあったスティムソンは、主要な戦争犯罪人に対して適切な司法の訴訟手続きを行うよう強く要求した。彼と陸軍省は国際裁判所についての最初の提案を立案し、それは間もなく交代したトルーマンから支持された。スティムソンの計画は、最終的に1945年11月から1946年10月のニュルンベルク裁判に結びつき、国際法の開発に重要な影響を与えた。
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