遺伝学の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:41 UTC 版)
「エドワード・ポールトン」の記事における「遺伝学の登場」の解説
メンデルの研究の再発見は進化論の重要なギャップを埋めた。しかし当初は理解されなかった。多くの人々はそれが自然選択と相容れないと考えた。ウィリアム・ベイトソンの学生の一人でオックスフォードの遺伝学の初代教授レジナルド・パネットとポールトンの議論は長く続いた。パネットは「蝶の擬態」(1915)で擬態の主要な原因として自然選択を否定した。彼は次のように指摘した。 中間型の欠如としばしば見られるオスの蝶の擬態の欠如は選択論者には説明できない。 多型擬態の謎。いくつかの擬態種は、一つだけではなく複数の他の種に擬態する。育成実験ではこれらの多型性はメンデルの分離の法則に従って綺麗に分離した。 選択圧をもたらす主体としての鳥の証拠はわずかであり、鳥の認識力はほとんど報告されていない。そして わずかな変異の蓄積は遺伝の観察事実と合致していない。 パネットにとって、これらは選択論者の段階的な進化では説明できなかった。その代わりに、証拠は擬態が突然の変異の跳躍に起因したことを示していた。擬態が一度の突然変異で作られるならば、自然選択は保守的な役割しか果たさないかも知れない。 しかしながら、これらの問題は一つ一つ解決されていった。鳥の捕食が昆虫に大きな選択圧を加えることはフィールドワークと実験によって着実に示された。育成実験はすぐに小さな変異が一般的であることを示した。初期の突然変異が顕著だったのは実験手法が原因であった。多型の不連続性は生殖的隔離と中間型の絶滅によって起きる。フィールド観察と実験的な遺伝学の段階的な融合は20世紀中頃に起きた進化論の現代的総合の一部である。 現在では明らかなように、突然変異は集団中で遺伝される変異の量を増やす。そして選択はそれらの変異の成功率の違いを説明する。ポールトンの説明は現代の進化生物学の見解に近かった。しかしパネットが示した疑問も正当であり、現在でもこれらの分野の研究は活発に行われている。 1937年にポールトンは81歳という高齢でイギリス学術協会の会長に就任した。会長演説で彼は進化理論の歴史を概説した。J・B・S・ホールデン、R.A.フィッシャーとジュリアン・ハクスリーはメンデル遺伝学と自然選択説がどのように結びつくかを明らかにした研究で非常に重要だった。彼の時代以降の生物学者の観察と実験は、ベイツ、ウォレス、メルドラ、トライメン、そしてミュラーのような先駆者の擬態と警告色に関する研究を確かめ、発展させた。 ポールトンは生物学的種概念のオリジナルを提案したことで知られている。また警告色をあらわす用語として「aposematism」を提案した。
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