現代の総合進化説
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「ジュリアン・ハクスリー」の記事における「現代の総合進化説」の解説
ハクスリーは第二次大戦中に起きた新たな進化理論の総合の主要な創設者のひとりである。遺伝子と個体群という異なるレベルのアイディアの合成は生物学のコンセンサスを得て、1940年代以降、現在でも広く支持されている。「進化生物学史の最も有益な出来事は“ネオダーウィン主義的総合”の確立だった(Berry and Bradshaw 1992)」。総合は「一方が正しく他が間違っていると立証されたのではなく、以前の(各分野の)研究戦略のうち最も可能性のある要素の交換によって」もたらされた(Ernst Mayr 1980)。 ハクスリーの最初の「試行」は『サイエンス・オブ・ライフ』(1929-1930)の執筆だった。そして1936年に長くて重要な論文をイギリス学術会議で発表し、1938年には三本の重要なレビューを出した。これらの長い論文のうち二つは性選択(ダーウィンのアイディアで、近年再評価されている)に関連していた。ハクスリーは性選択を「単なる自然選択の一側面......つがうことに役立つ特徴に向けられる関心で、通常は性に限定されている」と考えた。この不承不承の容認は彼のカンムリカイツブリ(生涯一夫一妻を維持する)の求愛の研究に影響を受けている。ほとんどの場合、求愛は配偶者選択が行われる前ではなくて、後に起こる。 ハクスリーの役割は仲介者だった。彼は他の多くの理論家と会い、統合を助けた。彼の著書『進化:現代的総合』はロンドン動物学会で事務局長をしている間に、20世紀の前半に書かれた特筆すべき文献を利用して書かれた。それは1942年に出版され、学術誌のレビューは熱狂した。アメリカン・ナチュラリストはそれを「ここ10年で最も優れ、もしかすると今世紀最大の進化理論の論文」と呼んだ。素晴らしく、基礎的な理論の統合で、アプローチは完全に科学的である。 ハクスリーの総合進化説の貢献者として普通リストされるのは、エルンスト・マイヤー、テオドシウス・ドブジャンスキー、ジョージ・ゲイロード・シンプソン、ベルンハルト・レンチェ、レッドヤード・ステビンズ、J・B・S・ホールデン、ロナルド・フィッシャー、シューアル・ライトだが、1942年にハクスリーの著書が出版された時点でまだ数人の特徴的な貢献は形になっていなかった。 エドモンド・フォードの生態遺伝学、染色体の専門家シリル・ダーリントンらは証拠と理論の両方において重要な貢献をした。 ハクスリーの著作で20回以上引用される主な生物学者はダーリントン、ダーウィン、ドブジャンスキー、フィッシャー、フォード、ゴルトシュミット、ホールデン、マラー、レンチェ、トゥリル、ライトである。このリストには意外な人物も含まれている。ゴルトシュミットは跳躍による進化を擁護した。影響力のあった遺伝学者だったが、たびたび同意できないとして言及された。トゥリルはハクスリーに植物に関する知識を伝えた。 このリストは三人の重要な人物を含んでいない。マイアと植物学者ステビンズと古生物学者シンプソンである。マイアは16回引用され、後の二つの版ではそれ以上である。この三人はそれぞれ、数年後に特筆すべき本を書いた。この三人の総合への貢献は疑いなく、彼らの引用の少なさはハクスリーの本が出た時期が早かったことに起因する。ハクスリーの本は古生物学に弱かった。シンプソンの後の研究が総合に貢献した重要性はそのために大きかった。 「新たな総合」と「進化的総合」は彼が提案した用語である。1938年には「クライン」を提案した。これは複数の亜種が地理的に連続して生息している状態を指す語で、古典的な例としては北極を囲むように存在するカモメの亜種の輪である。このクラインは輪状種(環状種)の典型例でもある。総合説へのハクスリーの最後の貢献のいくつかは生態遺伝学分野だった。彼は多型の調査で、自然中では驚くほど広範に多型が見られることに気付いた。特に一部のグループでは他の種よりも顕著な多型が非常に多く見られる。小さな二枚貝、ヒトデ、イソギンチャク、多毛環虫、バッタなどで見られる色や模様の多様性の膨大さは、おそらく捕食者の認識を困難にする効果によって維持されている。
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