特別法廷設立の経緯
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「カンボジア特別法廷」の記事における「特別法廷設立の経緯」の解説
イエン・サリへの恩赦や、ポル・ポトの死亡、タ・モクの逮捕は、クメール・ルージュ指導者の法的責任を追及すべきではないかとの議論を巻き起こすこととなった。また、1996年にトマス・ハマーベリがカンボジアの人権問題に関する国連事務総長特別代表に任命され、同代表も法的責任追及に向けて取り組んだ。その結果、国連人権委員会は、1997年4月11日、コフィー・アナン事務総長に対し、「過去の重大なカンボジア法・国際法違反に対処するためカンボジアから支援の要請があったときは、これを検討すること」を要請する決議を採択した。 1997年6月24日、ノロドム・ラナリット第1首相(フンシンペック党)とフン・セン第2首相(カンボジア人民党)は、アナン事務総長宛に連名で「1975年から1979年までのクメール・ルージュ支配の間に行われたジェノサイド及び人道に対する罪に責任を有する者を裁くため、国連及び国際社会の支援を求める」旨の書簡を送付し、その中で、カンボジアは裁判を実行するための資源と専門家を有していない旨を述べた。国連に支援依頼の書簡を送った直後の1997年7月、フン・センはクーデターにより第1首相のラナリットを排除し、実権を握った。 1997年12月、国連総会はこの要請について、専門家グループの派遣の可能性を含め事務総長に対し検討するよう求める決議を採択した。これを受けて事務総長は3名の専門家グループを任命した。専門家グループは、カンボジアを訪問するなど調査の上、1999年2月22日、国際法上・国内法上の重大な犯罪の存在が認められ、クメール・ルージュ指導者に対する法的手続の実施を正当化するに足りる証拠も存在するとの報告書を提出した。そして、その中で、安保理又は総会の下に、特定目的の国際法廷を設置すべきであると勧告した。 これに対してカンボジア政府は、1999年3月3日付事務総長宛書簡で、カンボジアの平和と国民和解の必要性を考慮に入れるべきであり、やり方を間違えば旧民主カンプチアの将官らにパニックを引き起こし、再度の内戦につながりかねないと警告し、その後の事務総長との会談でも、タ・モクについて国内法廷で裁くことを主張した。一方、事務総長側は、司法の最低限の国際水準を確保できるかや、裁判の対象者を限定することについて懸念を示した。 2001年8月、カンボジア国民議会は、民主カンプチア時代に行われた犯罪の訴追に関するカンボジア裁判所内の特別法廷設置法(以下「特別法廷設置法」)を制定した(8月10日公布)。同法によれば、特別法廷は国内法廷の特別部とされる一方、国連への妥協の結果として、第一審はカンボジア人判事3人と国際判事2人で構成されることとなった。しかし、司法の国際水準の確保を求める国連側の懸念は残った。特に、投降時に恩赦を受けたクメール・ルージュ指導者を裁判にかけることについては、フン・セン首相は内戦の再発につながるとして否定的なコメントを出し、主要指導者が訴追されないなら支援を打ち切るとする国連側との対立が残った。 その後、国連・カンボジア間で締結される協定と国内法との優劣関係や、対人管轄権の範囲などをめぐって国連とカンボジアとの交渉は難航し、国連は、2002年2月8日、「このままでは国連の求める独立・公平・客観性が保証されない」として、カンボジアとの交渉を打ち切る声明を発表した。 しかし、日本、フランス等の関係諸国が交渉再開に向けて外交交渉を行った結果、国連総会は、2002年11月20日の委員会で、事務総長に対し交渉の再開を求める決議を採択した。これを受けて、2003年1月、交渉が再開され、同年3月、国連とカンボジア政府との合意内容が明記された草案が作成された。同年5月13日、国連総会もこれを承認する決議を採択した。 そして、2003年6月6日、民主カンプチア時代に行われた犯罪のカンボジア法の下における訴追に関する国際連合とカンボジア王国政府との協定(以下「協定」)が締結され、閣僚評議会担当相のソック・アン(英語版)と国連代理弁護士のハンス・コレル(英語版)との間で調印が行われた。協定では、「1975年4月17日から1979年1月6日までに行われた、カンボジア刑事法、国際人道法・慣習及びカンボジアによって承認された国際条約についての犯罪及び重大な違反」について、「民主カンプチアの上級指導者及び最も責任を有する者」を本特別法廷の管轄とし、第一審裁判部はカンボジア人判事3人と国際判事2人、最高審裁判部はカンボジア人判事4人と国際判事3人で構成されることなどが合意された。最高刑は終身禁錮とされた。 その後、カンボジア国内において協定を承認するとともに、特別法廷設置法をこれに整合するように改正する必要があったが、2003年7月の総選挙後の与野党対立から1年以上議会が開かれず、2004年8月、ようやく議会が開会して審議が行われた。そして、カンボジア国民議会は、同年10月、国連との協定を承認するとともに、それに沿うように、特別法廷設置法を改正した。改正の要点は、 三審制から二審制への変更 特別法廷設置法と協定との関係について、設置法を優位に置くことを前提に、協定に国内法としての効力を与えること 被告人等の権利保障に関する規定の改正 カンボジア法の解釈・適用に不明確な点がある場合や、国際基準との整合性に問題が生じた場合に、国際的に確立された手続規則がガイダンスとして使用されるとの協定に沿った改正 設置法制定前に与えられることとされていた恩赦 (amnesty)・大赦 (pardon) の範囲は、特別法廷が決定する事項とすること である。 改正法が反対票なしで国民議会(下院)を通過した日、フン・セン首相は、記者に「我々が待っていたものが今日達成された」と述べた。 2005年4月までに、日本の2100万ドルをはじめとして各国から3800万ドルの資金拠出が表明され、資金面でも裁判の準備が整った。
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