炉型を正式決定
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「東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯」の記事における「炉型を正式決定」の解説
この答申後1965年12月に東京電力は組織再編を実施し原子力開発本部を設置、その元に下記の組織を設置して原子力開発の各過程の責任体制を明確にした。当時原子力業務課副長を拝命した井上琢郎は、この改正により原子力部門の組織は一気に拡充強化され、「原子力発電実現のための経営意思が、如実に示された」と回顧している。 原子力部:企画立案 東電原子力開発研究所:研究 福島原子力建設準備事務所:建設 『アトム』は「この機構改革は一般の観測を超えたもので、その真意を巡って様々な見方が行われている」と評した。中でも原子力開発研究所は技術・研究開発・経済調査の他社外研究機関との連絡に当たり、必要に応じ社外学識研究者等に研究を委託、社内技術陣強化のため中心的責任者をアメリカ等に長期派遣することも予定した。 なお当時、既に東京電力は実績としてGE社製プラントを多く採用していたが、原子力発電が火力発電と技術的に相当異なることから、従来のGEとの関係は白紙として選定に臨むことを表明しており、これは関西電力においても同様であった。 最終答申で盛り込んだ技術仕様の内容に基づき、東京電力はGEとWHの両社と予備折衝を実施し、次の基準を考慮した。田中直治郎によれば1966年1月より、両社からの説明を詳細に亘り聴取し、制作費等についての意見も聞いたと言う。なお、この原子力開発本部となった頃、GE、WH両社が提案してきたのが、ターンキー方式での契約であった。 国内外で発注実績を持つ 46万kW級 十分な実証性を備え、特に炉心部は運転実績を有すること 日本原電は敦賀1号の選定に7ヶ月を要したが東京電力は4-5ヶ月で完了させる構えであった。『原子力工業』1966年3月号によると、1966年1月に両社に要求したのは仮見積の提出で、当初計画では3月までに本見積書の提出を要求し、4月までに最終的な本見積書を提出させて5月頃正式に選定を行う手筈となっていた。このタイミングは関西電力初の原子力発電プラントである美浜発電所1号機の発注過程とほぼ同じであった。これに対して通産省と日本開発銀行は両社の計画のテンポが早過ぎて日本原電の計画に近接し「原電の使命の意義が損なわれる」ことに難色を示しており、通産省はテンポを多少ずらすことを指示した。同省の指示の結果、両電力の計画は1966年9月開催の電力調整審議会まで慎重に検討を続けると、若干スローダウンしたとされた。 なお、1966年5月20日に、田中直治郎は講演を行い、『土木建設』1966年8月号に掲載されており、電気出力の上方修正に至った事情などに触れている。 経済性を考慮すると容量は35万kWより大きいほうが良い 初の原子炉であるためメーカーにて発注または製造実績を持つこと。 米国では60〜80万kWの炉も発注され始めており経済性は高いがリスクも大きいので、上記の条件で、容量よりは実績を優先する 上記の条件で検討した結果、WHには手頃な容量で50Hz機のものが無かったという。 両社を比較した際、決め手となったのは経済性であり、GE側に有利な材料だったのはスペインのNUCLENORの件であった。『電力新報』1971年3月号によれば、両社の機器仕様の際は「技術的な優劣の判定はつけ難いもの」だったが、NUCLENOR社の発注は東京電力より1年先行しており、電気出力は46万kW、周波数も50Hzで共通しており、東京電力が条件とした「実績」があったのである。なお、豊田正敏は1号機運転開始30周年記念文集の中で、NUCLENORの設計流用による価格低減策を提案してきたのはGE側であった旨を回顧している。 そして1966年2月には、1号機をGE社製のBWRとする旨、社内で決定した。 GE社が1号機に提案して採用されたタイプは当時400/460MW型と称され、電気出力は初期定格40万kW(400MW)であるが、将来的には46万kWまで増加させられるようになっていた。タービン発電機、安全施設等は2%増の47万kWとして設計された。工学的安全施設は先行して建設されているドレスデン2号機に具備した物をすべて備えた。なお46万kWで申請した場合、認可は貰える見込みとしても安全審査に時間を要すると予想されたため、アメリカで1号機より先に運開する類似タイプの容量が40万kWであることを根拠に、1966年4月4日の電源開発調整審議会(後述)にて容量40万kWとして承認を取ったと言う。 上述の通産省指示もあったが、東京電力は1966年5月11日にGEに対して正式発注を行った。なお、GEは翌1966年6月にターンキー方式による受注を廃止し、発電所の一括請負価格を撤廃、新たに原子炉、核燃料、付属系統および関連サービスからなるNuclear Systemとして取り扱うと発表した。この背景としてターンキー方式は原子力発電の初期段階では効果的だったがその後電力、建設、製造の各業界を通じて、同方式を打ち切るのが望ましいという声があったため、GEとしては建設関連業務を止め、本来のSystem Supplyerとしての立場に回帰するという意図があった。米国外発注者と打ち切り時点で交渉中の米国内契約者についてはターンキーを継続するとした。松永長男が2号機の契約方式についてGEの側からターンキーを拒否してきた、と回顧した背景にはこのようなGE側の事情もある こうして、東京電力最初の原子炉はBWRと決定し、1971年3月26日に運転を開始したのである。
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