瀬戸内海国立公園
幕末から明治初期にかけて、来日した欧米の外交官や宣教師などが一様に賛美したのは、緑濃い自然と、自然に溶け込んで一体となった人の暮らしがつくる風景の美しさであった。それは長崎や下田に入港するときから始まり、瀬戸内海を航行する際はもちろん、江戸近郊においてさえもそうであった。質素だが清潔な家屋や花に飾られた庭、傾斜地を耕した段々畑は、長い歳月にわたる人の営為の集積であり、彼らはそこに、恵まれた自然とともに持続する文化や、勤勉な国民性を見たのである。
日本が近代化の歩みを進め、国際航路の客船が通うようになると、船が進むにつれ、島陰から次々に島が現れ新しい風景が開ける瀬戸内海は、景勝地としての世界的な評価を得た。今、瀬戸内海に向かう視点は水上から主に陸上に移り、風景自体も大きく変わった。しかし、この公園の原点が、自然と人文が融合した風景であることに変わりはない。
多島海景観と人文景観
紀淡(きたん)、鳴門、関門、豊予(ほうよ)と4つの瀬戸(海峡)に囲まれた内海、東西400km余りの長さを持つ瀬戸内海は、多島海景観を中心とする海の公園である。
昭和9年、最初の国立公園として、雲仙、霧島とともに指定されたとき、その区域は今よりはるかに狭く、小豆島から鞆(とも)の浦までの、備讃(びさん)瀬戸を中心とした範囲にすぎなかった。区域が拡張されたのは25年で、陸域がほぼ現況に近くなり、その後31年から43年にかけて海域が拡張され、同時に六甲山地区、加太(かだ)地区、五色台地区などが編入されて現在の区域になった。公園区域は、展望地点、社寺、史跡など特色のある多くの景勝地を飛び飛びに集めて指定している。
潮汐により出入りする海水は、狭い瀬戸を通過するときは、内外の潮位差により急流になり、激しく渦を巻いて流れる。直径20mに及ぶ鳴門海峡の渦潮は特に著名で、この公園の主要な興味対象の一つとなっている。観潮船が運行され、四国と淡路島を結んでこの上を通過する大鳴門橋の鳴門側の下部には、海上遊歩道「渦の道」が設けられている。
展望台からの景観
海景を展望する地点としては、鷲羽(わしゅう)山(倉敷市)が代表的であり、備讃瀬戸にある塩飽(しあく)諸島の島々を一望できる。児島〜坂出ルートの本四連絡橋がそのわずかに西方を通過している。高松市の東西にある屋島と五色台は、古い溶岩の台地で、海とともに讃岐平野の展望がよい。屋島には、源平合戦の古戦場、壇ノ浦がある。その他、仙酔(せんすい)島を前面に望む鞆の浦、来島海峡を望む近見山など、各地に見所が多い。
六甲山(931m)は、平坦な山頂に多くの施設があり、関西有数の行楽地であるが、初めは神戸居留地の外国人の避暑地として発展した。小豆島には、集塊岩の奇岩が並ぶ寒霞(かんか)渓があり、紅葉の名所である。
瀬戸内地方は降雨量が少なく、晴天の日が多い。この地域の植生はアカマツ、クロマツ林が代表的なものである。これは、土壌が浅く栄養に乏しいこと、雨量が少なく乾燥した気候であること、製塩などの燃料にするため樹木の伐採が行われたことなど多くの理由がある。しかし、近年のマツ枯れ現象のあと、再生した森林はコナラなどの広葉樹林に変わっているところが多い。
展望台からの景観
社寺としては厳島(いつくしま)神社、大山祗(おおやまずみ)神社、金刀比羅(ことひら)宮などがある。厳島神社は推古天皇の時代(593)の創建、仁安3年(1168)に平清盛が神殿を造営した。厳島自体がご神体であり、自然林の残る弥山(みせん)を背景として海上に浮かぶような建築群は、世界文化遺産に登録されている。大山祗神社は芸予諸島の大三(おおみ)島にあり、国宝や重文を多数所蔵することで知られる。
本四連絡橋
明石−鳴門、児島−坂出、尾道−今治の3ルートで本州と四国を結ぶ。大規模な人工物が瀬戸内海の繊細な多島海景観の中に出現する本四連絡橋の計画は、風致への影響を巡って議論を呼んだが、最終的に自然環境との調和のため、工法や修景緑化に十分配慮することを条件に同意された。
関連リンク
- 瀬戸内海国立公園 (環境省ホームページ)
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