海賊の島
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海賊島が舞台であり、骸骨の敵や艦船の内部などを冒険する。ボスはニーズホッグで、2形態存在する。第一形態では海賊船同士の砲撃戦で、自らも船に乗り込んで備え付けられた砲台を攻撃することによって発射される大砲で敵を攻撃する。第二形態では本体との戦いとなる。
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海賊の島
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「イスラーム期のクレタ」の記事における「海賊の島」の解説
アブー・ハフスはビザンツ帝国による初期の攻撃を撃退し、ゆっくりと島全体を統合した。クレタを征服したムスリムは、827年か828年の夏、クレタ島の北岸に近い場所に、ハンダクスという城砦を建設した。「ハンダクス」(Χάνδαξ, ラテン文字転写:Chandax)あるいは「ハンダカス」(Χάνδακας)はギリシア語文献に見える呼び名であり(なお「カンダクス」と読む場合もある)、クレタのムスリムはアラビア語で「掘割」を意味する الخَنْدَق(ハンダク)を含む名前で呼んだ。なお、ハンダクス建設以前の彼らの根拠地は、クレタ南部のゴルテュス(ゴルテュン)だった可能性がある。また、ハンダクスはアブー・ハフスの王国の首都になり、クレタがビザンツ帝国に奪回された後も、「カンディア」、「ヘラクレイオン」と、その時々の支配者に応じて名称を変えながら、現在の町イラクリオンへと発展することになる。 アブー・ハフスはアッバース朝のカリフの宗主権を承認していたが、事実上独立した諸侯として統治した。彼らによるクレタ島の征服は、東地中海における海軍力のバランスを変更し、それまで安全だったエーゲ海の沿岸部に頻繁かつ破壊的な略奪をもたらしたという点で重要な出来事であった。 クレタ島のアンダルス人たちはまた、その歴史の初期のいずれかの時点でキュクラデス諸島のいくつかの島を占領した。しかしミカエル2世は別の大規模遠征を企画し、軍艦の新造とテッサラコンタリオイ(Tessarakontarioi)と呼ばれる新しい水兵の募集を行った。オオリュファス(英語版)の指揮するビザンツ艦隊はアラブ人をエーゲ海の島々から追い払うことができたが、クレタ島の奪回には失敗した。ミカエル2世の後継者テオフィロス(在位:829年-843年)は後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン2世へ使者を送り、クレタ島のアンダルス人亡命者に対する共同行動を提案した。しかしアブド・アッラフマーン2世はクレタ島に対するビザンツ帝国の行動への同意以上のものを提供することはなかった。829年10月、クレタ島のアンダルス人はタソスの戦い(英語版)でビザンツ海軍を撃破し、オオリュファスの戦力の多くを無力化した。そしてエーゲ海の海岸地帯での略奪が可能となった。後に彼らはエウボイア(835年-840年頃)、レスボス島(837年)、そしてテマ・トラケシオイ(英語版)の沿岸地帯を襲撃し、そこでラトロス山(英語版)の修道院を破壊した。しかし彼らは現地のストラテゴス、コンスタンティノス・コントミュテス(英語版)によって徹底的に打ち破られた。 842年のテオフィロスの死後、クレタの脅威に対抗するための新たな処置がビザンツの新政権で取られた。843年に新たな「海のテマ」(テマ・アイガイウ・ペラグス(英語版))がアラブ人の襲撃により効率的に対応するために設置された。そしてクレタ島を奪回するための別の遠征計画が強力なロゴテテス(英語版)で摂政のテオクティストス(英語版)の個人的なリーダーシップの下で組織された。この遠征はクレタ島の大部分を占領することに成功したにも拘らず、テオクティストスはコンスタンティノープルの政治的陰謀の結果軍団を放棄しなければならず、取り残された軍はアラブ人たちによって壊滅させられた。クレタ島のアラブ人を弱体化させる努力の中で、853年にいくつかのビザンツ艦隊が東地中海での連携作戦に従事し、クレタ向けの武器を鹵獲するためにエジプトの海軍基地ダミエッタを攻撃(英語版)した。続く数年間にビザンツ軍はアラブ人に対していくつかの成功を収めたが、それにもかかわらずクレタ島のアラブ人は860年代初頭には略奪を再開し、ペロポネソス半島、キュクラデス諸島、そしてアトスを攻撃した。866年、ビザンツ帝国のカエサル、バルダス(英語版)はクレタ島を征服するための別の大規模遠征軍を組織したが、政敵のマケドニア人バシレイオスによってバルダスが殺害されたために艦隊が首都を出陣してからわずか2週間で遠征は終了した。 870年代初頭、クレタ島のアラブ人による襲撃は新たな段階に達した。彼らの艦隊はしばしばビザンツ帝国から移った反逆者によって指揮され、エーゲ海から更に遠くダルマティアの海岸地帯にまで活動範囲を広げた。873年頃のある時、ビザンツ帝国の反逆者フォティオス(英語版)指揮下のクレタ艦隊はマルマラ海にさえ入り込み、成功はしなかったもののプロコンネソスを攻撃した。717年から718年にかけてのコンスタンティノープル包囲以来、ムスリム艦隊がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに肉薄したのは初めてであった。しかし彼らは帰還時、ビザンツ軍の新たな司令官ニケタス・オオリュファス(英語版)によってカルディアの戦い(英語版)で手痛い敗北を被った。すぐ後、オオリュファスは再びコリンティアコス湾の戦い(英語版)でクレタ艦隊を打ち破り、多数の捕虜を得た。捕虜たちは略奪行為に対する報復として苛烈な拷問を受けた。ほぼ同じころ、ヤーザマーン・ハーディム(英語版)によって率いられたタルソスのムスリム艦隊はハルキスで襲撃され破壊(英語版)された。これらのビザンツ軍の勝利は明らかに一時的な休戦をもたらし、クレタのアミール、Saïpes(シュアイブ・ブン・ウマル(英語版))はおよそ10年間に亘り、ビザンツ帝国への貢納を義務付けられた。 ビザンツ領への襲撃はすぐ後に再開され、これにはクレタ人に加えて北アフリカ人とシリア人の艦隊が加わった。ペロポネソス半島は彼らの襲撃によって特に激しく苦しめられ、エウボイアとキュクラデス諸島(パトモス島、カルパトス島、そしてソカストロ島(英語版))の周囲がクレタの支配下に入った。クレタの支配は、北はサロニコス湾のアエギナ島、ペロポネソス半島南岸沖のエラフォニソス島(英語版)とキティラ島に至るまで広がっていた。キュクラデス諸島の中の大島であるナクソス島、それに恐らくパロス島とイオス島の周囲の島々は、人頭税(ジズヤ)の支払いを強制された。全般的にクレタ島のムスリムは遺物や文学に痕跡をほとんど残していないため、一時的に支配または占領された島は実際にはもっと多い可能性がある。このアラブの襲撃の新たな潮流はエーゲ海全域において、いくつかの島の完全な荒廃と、各地の海岸部が放棄されより防御に適した内陸部に集落が移動するという影響をもたらした。アテネもまた896年-902年頃に恐らく占領され、904年にはトリポリのレオン(英語版)が率いるシリア艦隊がビザンツ帝国第2の都市テッサロニキを略奪(英語版)した。クレタ島のアラブ人はこのシリア人たちと緊密な協力関係にあり、シリア艦隊はしばしばクレタ島を基地として、またレオンがテッサロニキから引き揚げる際には中継地として利用した。この時、およそ20,000人以上のテッサロニキ人の虜囚がクレタ島で奴隷として売却または贈与された。また、クレタの政権はエジプトのトゥールーン朝(868年-905年)政府から強力な支援を受けていた。しかしトゥールーン朝の後成立したイフシード朝の後継者たちはクレタへの支援を怠った。911年、ヒメリオス(英語版)の指揮の下、100隻以上の軍船を用いた新たなビザンツ帝国のクレタ島への大規模遠征が開始された。しかしこの遠征軍は数ヶ月で島からの撤退を余儀なくされた。そして撤退の途中、ヒメリオスの艦隊はキオス島の戦いでシリア艦隊によって粉砕された。
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