死亡者数・死亡率(1万トン当たり0.7人が25.8人に?)
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「万人坑」の記事における「死亡者数・死亡率(1万トン当たり0.7人が25.8人に?)」の解説
朝日新聞(1991.11)の新たな老頭溝万人坑報道では、沈東剣教授により、1940年に石炭1万トン当たり労働者死亡数が25.8人に上ったという。対して、東京撫順会は「撫順炭鉱統計年報」に当たり、1940年は死亡が年9人だったことを突き止めたとする。1万トン当たり0.7人である。田辺は、中国側の「主張が、いかに根拠のないものか、はっきり示している」と述べている。ただし、9人とする「撫順炭鉱統計年報」の元資料には欄が日本人と満州人と記載され、日本人欄が現在の日本人(内地人)・朝鮮人(半島人)であり、満州人欄が満人・漢人とは考えられるが、把頭の下で会社に籍の無い労務者がそもそも集計の対象となっていたかどうかは分からない。職員・傭員と常傭工の他に、臨時工でかえって過酷・危険な職場をしばしば担わされた供給工、土木・建築を担当する請負工があり、後二者は事故も多く、それゆえにかえって多くの場合、会社の労務災害補償の対象にはされず、請負人である把頭の責任とされていた。そのため、同資料の対象になっていなかった可能性が高い。さらに、その後の時局悪化による増産要請の高まりとともに環境が悪化しており、例えば満州国では1941年に労働統制法改正が行われ、状況がさらに一段と悪化したと言われている。割当による供出工人が増えていったとされる。また、保安矯正法や思想矯正法に基づいて送り込まれたとされる特殊工人の労働がタコ部屋労働であったとも言われている。とすれば、管轄が異なるため初めから特殊工人の死亡者数は統計に入っていない可能性、さらに、これら矯正法による特殊工人の増加とともにその後は死亡者数が増えた可能性などもある。 特殊工人につき、中国の研究者である解学詩は軍事機密であったため体系的な統計資料がないとしている。鉱工業関係企業のみとなるが、警務総局の1943年4~6月の3か月間の統計で、特殊工人の一つである輔導工人の使用人員40402人に対し死亡者4603人、同じく特殊工人の一つである保護工人の使用人員18306人に対し死亡者1536人としている。 松村高夫の研究によれば、特殊工人より恵まれた状況にあったはずの常傭方・常傭方の死亡率につき、『撫順炭礦統計季報』第1号(1943年5月,P.68)の統計で、年間で1940年常傭方1.5%常傭方4.6%、1943年常傭方1.9%常傭方12.2%となっている。 青木茂によれば、満州国時代の日満商事株式会社調査室が発行した『日満商事調査統計月報・満州炭鉱資材読本別冊』に「鉱山労務者採用後期間別死亡者加重比率表」に14の炭鉱・鉱山・事業所の1943年6月までの統計が出ており、それらを平均した労務者の期間内死亡率は3か月以内に51.3%、半年以内に75.9%、1年以内に87.0%であるとし、また、別の資料からは、ソ連国境沿いの日本軍要塞群建設のために320万人余の中国人が徴用され、その凡そ3割にあたる100万人余が死亡したとする。工事について、個別具体的な裏付け資料としては、関東憲兵隊司令部中央検閲部が当時、手紙を検閲、内容に応じ、除去・押収・焼却・部分的塗りつぶし・そのまま発送といった処理を行い、要約して郵政検閲報告書として月報や週報にまとめていたが、その1940年『通信郵検月報(五月)』に同年5月に黒竜江東寧県藤田組大肚川現場の小山水平が大阪市港区千代見町三丁目(旧表示)の小山徳太郎に宛てた手紙に、藤田組の労働者は20日の時点で24人が死に、他の部隊でも毎日1人か2人死んでいる、と書かれていたという。 ちなみに、日本の例になるが、福岡県で宇美商業高校の社会研究部の高校生が地元の記録を調査、その結果、1944年9月に勝田鉱業所大谷坑に連れて来られた中国人工夫(事実上騙されたり、強制的に拉致されて連れてこられたものだが、満州であれば特殊工人よりも待遇が良かった筈の募集工人である)が1年3ヶ月で352人のうち87人が死亡したことを確認している。死亡率25%(年間で19.8%)である。
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