森監督時代
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この時期は投打ともに戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙、田辺徳雄、バークレオ、安部理など)がそろい、特に渡辺久信(最多勝利1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、渡辺智男(最優秀防御率1991年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲と呼ばれた秋山・清原の打力が光り、森の任期の1986年から1994年には、1989年を除くすべての年でリーグ優勝し、また1992年までリーグ優勝した年には必ず日本一にもなり、「西武黄金時代」 を築いた。 1986年 ドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは広島東洋カープと対戦するが、第1戦で引き分け3連敗とした後、第5戦から日本シリーズ史上初の第8戦までの4連勝で逆転勝利し3年ぶりの日本一に輝く。永射、片平が大洋へトレードとなり、大田卓司が引退。 8月5日に球団事務所を現在の西武ライオンズ球場敷地内に移転した。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は引き続きサンシャイン60と同地に残る)。 1987年 秋山が外野へ、石毛が三塁へコンバート。序盤は清原の不振、辻や渡辺など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に首位・阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝を果たした。阪急の山田久志は同年のオールスター休みに行われた落合博満との対談の中で、優勝の行方を「自分と東尾の勝利数の差が優勝の行方を左右する」との見解を述べたが、この年15勝を挙げた東尾に対して山田は7勝にとどまり、皮肉にも自身の予想を的中させる結果となった。日本シリーズでは巨人と対戦、4勝2敗で勝利し2年連続日本一。しかし、オフに東尾が麻雀賭博容疑で書類送検され、翌年6月まで出場停止処分となった。 1988年 開幕から謹慎の東尾修の抜けた穴が懸念されたが、開幕すると、工藤、渡辺、郭泰源、松沼博久ら安定した投手陣に、この年より一軍出場のバークレオが加わった打線で開幕から貯金を重ねた。29試合目で20勝、6月15日には貯金20としたものの、皮肉にも東尾が復帰して以降は工藤らが不調、郭が故障するなど投手陣が総崩れとなり、それでも6月には2位近鉄に8ゲーム差をつけ、9月に入っても6ゲーム差をつけていたがそこから近鉄の猛追撃を受けた。9月13日に近鉄に勝利し、そこで西武の優勝は決まったかのように見えたが、西武はそこから10試合を4勝6敗として、9月29日には近鉄に1.5ゲーム差に詰められ、10月5日にはゲーム差無しで近鉄に並ばれるなど熾烈な優勝争いとなった。西武も終盤10試合を8勝2敗で乗り切り、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄が残り4試合を3勝以上で近鉄の優勝、2勝以下は西武が優勝という状況だった。近鉄がそこから1勝1敗で、2連勝が優勝の絶対条件となった10月19日の川崎球場でのロッテ対近鉄のダブルヘッダーの第2試合が4対4の引き分けに終わったことにより、2厘差(ゲーム差なし)で西武の4年連続リーグ優勝が決定した。日本シリーズでは4勝1敗で中日に勝利し、3年連続日本一となった。2年目の森山良二が10勝で新人王。東尾は現役引退。 このシーズンは昭和最後のペナントレースだったので、西武は「昭和最後のパ・リーグ優勝、日本一球団」となった。 1989年 序盤から低迷し、7月途中まで3連勝すらない状況であった。シーズン中盤よりオレステス・デストラーデが加入する。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打席連続本塁打を打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃した。結果は優勝した近鉄に勝率2厘(0.5ゲーム)差、2位のオリックスに勝率1厘差の3位に終わった。新人の渡辺智男は10勝と奮闘した。オフに一軍作戦兼バッテリーコーチの黒田正宏がダイエーへ移り、黒江透修が一軍ヘッドコーチとして球団に復帰。 1990年 3年連続最多セーブ数が一桁だった反省を生かし、リリーフ陣の強化を図った。巨人から鹿取義隆、ドラフトで潮崎哲也を獲得。この2人がリリーフ陣を支え序盤から首位を独走、6月に8連敗した以外は安定感ある戦いで、2位オリックスに12ゲーム差をつけてリーグ優勝を奪回し、日本シリーズでは巨人を4連勝で破り2年ぶりの日本一を達成した。デストラーデは本塁打、打点の2冠、秋山は盗塁王、渡辺久が最多勝(近鉄・野茂と同時)となる。 1991年 開幕から8連勝を果たした。序盤は首位を独走するが、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎討ちとなった。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し、2年連続のリーグ優勝を飾る。日本ハムに所属していた若菜嘉晴が現役を引退した。若菜の引退により、西鉄ライオンズに所属した選手が全員引退した。日本シリーズでは山本浩二監督率いる広島と対戦し、先に2勝3敗で王手をかけられるも、第6・7戦で勝利し4勝3敗、逆転で広島を破って2年連続日本一。郭はMVP、デストラーデは2年連続で本塁打、打点の2冠、渡辺智が最優秀防御率を受賞。 1992年 6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでも野村克也監督率いるヤクルトを4勝3敗で破り3年連続日本一に輝いた。日本シリーズでも活躍した石井丈裕は15勝を挙げてMVP、デストラーデは3年連続本塁打王。管理部長の根本陸夫がダイエー監督就任のため退団。 1993年 デストラーデがメジャー復帰のため退団、攻撃力低下が懸念されたものの、日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし日本シリーズではヤクルトに3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、福岡ダイエーホークスと秋山幸二、渡辺智、内山智之と佐々木誠、橋本武広、村田勝喜による3対3の交換トレードが成立する。また、この年からそれまで禁止されていた所属選手のCM出演が解禁となり、その第1弾として清原がエースコックのスーパーカップのCMに起用された。 1994年 オリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが西武が9月に抜け出すとそのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れ2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退した。
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