根津嘉一郎 (初代)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 根津嘉一郎 (初代)の意味・解説 

根津嘉一郎 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/13 04:43 UTC 版)

ねづ かいちろう

根津 嘉一郎
根津嘉一郎 (初代)
生誕 根津栄次郎
1860年8月1日
死没 1940年1月4日
国籍 日本
別名 隆三,青山(茶名)
職業 実業家, 政治家
著名な実績 根津財閥の創始者
肩書き 鉄道会議議員、東京商業会議所副会頭、東京米穀商品取引所理事長。東武鉄道、加富登麦酒、帝国石油、日清製粉、大日本製粉、帝国火災保険、東上鉄道、東京地下鉄道、南朝鮮興業、太平生命保険各(株)社長。富国徵兵保険(互) 社長。東京電燈、 山梨日日新聞社、 京浜地下鉄道、大日本航空、東京高速度鉄道各(株)取締役等[1]
運動・動向 貴族院議員
子供 根津嘉一郎 (2代目)
テンプレートを表示
山梨県山梨市万力公園には銅像がある。現地の解説板によると、1932年に建立されたが戦時供出され、1960年に再建。

初代根津 嘉一郎(ねづ かいちろう、万延元年6月15日[2]1860年8月1日) - 昭和15年(1940年1月4日)は、日本の政治家実業家根津財閥の創始者でもある[3]

東武鉄道や南海鉄道(現・南海電気鉄道)など、日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わった[3]「鉄道王」と呼ばれることでも有名[3]

現在の武蔵大学および武蔵中学校・高等学校の前身である旧制武蔵高等学校の創立者[3][1]

なお、根津の長男である藤太郎が嘉一郎の死後に名前と財閥を受け継いだことから、区別が必要な場合に初代を冠している。

来歴

出生

甲斐国山梨郡正徳寺村(現山梨県山梨市)に生まれた[4]。正徳寺村は近隣の村と合併して平等村となったため、出生地を東山梨郡平等村と記載する文献が多い[2][5][6][7]。根津家は雑穀商や質屋業も営む豪商で、「油屋」の屋号を有していた[8]。父・嘉一郎[9](もしくは嘉市郎[6]、藤右衛門[4][5])と母・きみの間に、兄・一秀、姉・とら、妹・くにの2男2女の家族であった[10][11]。出生名は栄次郎[8]であった。

青年期

地元の寺子屋で学んだのち、明治10年(1877年)数え年18で山梨郡役所の書記となり月給2円で勤務した[12]。この頃酒やタバコを覚え、親の金をくすねて役所の使いを口実に甲府まで飲みに出ていたという[13]。また、自由民権運動の高まりに乗って共愛社と称する政治結社を結成したり[14]、政治的な演説会を行ったため当時発布された集会条例によって官憲に摘発されるなどした[15][16]

自らは陸軍軍人となることを望んでいたが、長男の一秀が病弱であったため根津家の嗣子と見なされていた[14]。しかし明治13年(1880年)、数え年21で突如家族に黙って東京に出奔した[17]。この時点で士官学校への入学年齢上限を超えていたことから、上野にあった漢学者馬杉雲外の私塾に入門した。親は出奔に怒り学資などの支援を一切行わなかったため困窮したが、雲外は苦学する姿勢を好み丁寧に指導したという[18][19]。一方で山梨時代と同じく酒を飲み喧嘩もしたという[20]。その後同じ山梨出身の漢学者である古屋周斎の私塾に移籍した[注釈 1]。3年間の東京生活の後、叔父に説得され帰郷した[22][注釈 2]

しばらくは家業を手伝いつつ、明治16年(1883年)には地元山梨で初の公会堂である峡東会堂を設立し[23]、峡中立憲党に参画する[15]など、引き続き政治活動にも傾倒した。この頃、政治に金が必要であることを痛感していた根津は、当時甲州一と言われる富豪であった若尾逸平と度々面会し、経済に関する様々な教えを受けた[24][25]

明治17年(1884年)5月[26][注釈 3]大蔵省官吏の村上知彰の娘・久良(くら子[27])と結婚した。この時期、それまでの栄次郎という名を隆三に改めた[注釈 4]。ほどなく父が隠居することとなり、兄の体調も思わしくないことから戸主を受け継ぐこととなり、嘉一郎を襲名した[28][注釈 5]。襲名時期は不明だが、明治23年(1890年)6月に公表された貴族院議員候補者名簿には、多額納税者として既に根津嘉一郎の名前が見られる[29]。納税額は若尾に次いで山梨県で第2位である1703円24銭8厘であった。

政治活動

明治22年(1889年)に、平等村の村会議員に初当選。明治24年(1891年)8月には東山梨郡の郡会議員に当選した。父・藤右衛門は商人の息子が政治に関わることに強く反対し、県知事や郡長に掛け合って立候補の無効を懇願したが叶わず、最後は嘉一郎の演説会場に乗り込んだが逆に弁舌に感服して、嘉一郎の政界入りを認めた[30]

同年10月には山梨県議会議員にも当選した。県議会では治水に関する建白に名を連ね、また道路改修に賛成票を投じており、特に交通問題への関与は後の鉄道分野への投資につながったとの説がある[31]

明治26年(1893年)には平等村と上万力村の2村で構成された組合村の村長となった。ただこの頃には投資や経営に専念するようになり、村長の印章を収入役に預けたままで東京に滞在することが多くなった[32]。また兄の体調が回復してきたことから、明治29年(1896年)に根津家の家督を兄に譲った[33]。明治30年(1897年)4月には村長を辞職し、東京市京橋区南蛸町に居を構えて分家した[34][33]

明治37年(1904年)の第9回衆議院議員総選挙では山梨県郡部から立候補した。この頃には実業家としての根津の名声は広く知れ渡っていたことから順当に当選し、初めて国会議員となった[35]。当初、同じ山梨県から当選した佐竹作太郎らとともに甲辰倶楽部に所属した[36]。しかしこの時、いわゆる議員資格問題[注釈 6]に関係して、新潟選出議員である萩野左門から根津・佐竹に対する当選無効の申し立てが行われた[38]。これに対して根津が憲政本党、佐竹が立憲政友会へとそれぞれ多数会派に鞍替えし[39]、議院内委員会および本会議の双方で議員適格との議決を得た[40]。この問題は、大審院(司法府)と衆議院(立法府)とで請負に対して異なる解釈を示す結果となった[41]

その後根津は大正4年(1915年)の第12回衆議院議員総選挙まで連続当選し、立憲国民党立憲同志会に属して4期13年にわたって衆議院議員を務めた。しかし大正6年(1917年)の衆議院解散に伴う選挙には実業の多忙を理由として出馬せず、いったん政界から身を引いた[42]

甲州財閥

政治家としての活動と並行して、前述の若尾逸平に加え雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成する[3]。明治24年(1891年)には渡辺信小田切謙明佐竹作太郎ら名望家とともに鉄道期成同盟会を結成し、中央本線の敷設運動を行う。

第一徴兵保険会社や帝国火災保険、富国徴兵保険など保険会社の資金を運用し、東京電燈の買収などに関わる。明治38年(1905年)には東武鉄道の社長に就任し、当時「東武鉄道空引会社」と呼ばていた同社の経営再建に取り組んだ[3]

その他にも嘉一郎は経営に行き詰まった企業を多く買収し、再建を図ったことから「火中の栗を拾う男」「ボロ買い一郎[3]」との異名や揶揄を与えられることもあった。資本関係を持った鉄道会社は25社に及び[43]、多くの会社において名誉社長などに就任した。その中の数社には同じ甲州出身の早川徳次を送り込み、経営を任せて再建している。

明治37年(1904年)以降、衆議院議員を連続4期務めた(憲政会[1]。大正元年(1912年)には帝国火災保険株式会社を設立し初代社長を務めた[注釈 7]

大正15年(1926年)12月7日より貴族院勅選議員となり[3][1][46]研究会に所属し死去するまで在任した[47]

「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手がけ大正11年(1922年)に旧制武蔵高等学校(現在の武蔵大学武蔵高等学校・中学校)を創立した[3][1]

昭和14年(1939年)12月25日にインフルエンザを発症し、自宅療養となったところ尿毒症を併発し、翌昭和15年(1940年)1月4日午前1時30分に死去した[27]。享年81[3]。葬儀は同月8日に築地本願寺で行われ、日中戦争という時勢のため花輪の掲出が全くない中、政財界・教育界から多くの参列者が集まったという[27]。墓所は多磨霊園(15-1-2-10)にある。

人物

趣味

嘉一郎は茶人としても知られ、「青山」と号して茶道を嗜み、多くの茶道具や古美術を蒐集している。甲州財閥をはじめとする実業家は茶道を嗜む人物が多く、彼らは茶会を古美術の鑑賞目的以外に、情報交換の場として利用した。

人脈

嘉一郎は生前から宮島清次郎日清紡績会長)の紹介で吉田茂の面識を得ていたが、死後、遺族に課税されるはずだった莫大な相続税を、東京財務局長の池田勇人が特例で美術館への寄贈名目として免除した。このことに感激した嘉一郎の遺族は吉田に推薦して、池田を大蔵大臣に就任させた。これが後の池田内閣成立の重要な基礎となったのである。

健康

若い頃は体重12貫(約45キログラム)とそれほど体が大きくなかったうえに遊興におぼれ、自身曰く婦人科以外のあらゆる医師にかかった[48]。長じてからは節制を心がけ、100歳まで生きることを目標としていた[49]。薄着をして体を寒気に慣れさせる、毎朝梅干を食すといった独自の健康法[50]の他、毎朝必ず便通のために数十分トイレに籠ることを心がけていた[51]。これはその日1日の方針を定めるための思索の時間を兼ねており[52]、そのためトイレには大理石の時計をしつらえた本棚があるなど、書斎としての機能も持っていたという[51]。また歯は丈夫であったが晩年には歯槽膿漏を患っていた[53]

東武鉄道への経営参加

根津嘉一郎の生家、山梨市の根津記念館2010年9月撮影)

晩年に経営者となった東武鉄道との関係は、明治38年(1905年)に780株を取得したことから始まる(しかしながら、1902年9月に160株を取得し1905年には1,000株、1909年下期の増資時2万株とし株式総数に占める割合を18.9%へと高めた、とする文献もある[54])。これは嘉一郎が当時所有していた他の鉄道会社の持株数に比べるときわめて少ないものであり、当初経営への参加は当然行っていなかったが、赤字続きだった東武鉄道からの要請もあって経営に参加し路線延長や東上鉄道との対等合併を推進するなどその手腕を発揮した。延長した路線は1903年4月に川俣まで1907年8月に足利までであり、営業収入の増大をもたらした[55]

しかし、嘉一郎は昭和に入る頃まではまだ東武鉄道の経営が主な仕事となっておらず、なおも投資家として資本参加した南海鉄道京浜地下鉄道南朝鮮鉄道をはじめとする全国の鉄道の取締役に就いていた。

嘉一郎の没後、長男の藤太郎が2代目嘉一郎を名乗り、東武鉄道の経営を引き継いだ。また2代目嘉一郎の退任後、社外出身社長の時代を経て孫に当たる2代目嘉一郎の次男にあたる嘉澄1999年から2023年まで社長を勤めた。

栄典

日本

外国

家族

平等村における根津家

  • 父・嘉一郎/嘉市郎/藤右衛門(文政6年7月22日 - 明治35年6月4日)[11]
  • 母・喜美(きみ)(文政5年7月22日 - 明治15年8月3日) - 旧姓は広瀬[11]
  • 兄・一秀(いっしゅう[67])(安政元年2月[68] - 明治37年(1904年)9月1日[69]
    • 病弱で家督相続が危ぶまれ、一時は弟・嘉一郎が家督を継ぐ流れになっていた。弟とは異なり土地を中心とした投資に注力し[70]、高額納税者にも名を連ねた[68]。最終的には病気が平癒したことで根津家の家督を継ぎ、結婚して1女をもうけた[10]根津啓吉は娘婿であり一秀の養子である[71]
  • 姉・登良(とら)(生没年不詳)- 須田五郎[10](または耕)と結婚。宣、茂富、藤平などの子をもうけた。須田宣は須田藤平に家督を委ねて分家し、嘉一郎のもとで東武鉄道などの経営に関わった[72]
  • 妹・久仁(くに[注釈 9])(慶應2年1月 - 没年不詳)[注釈 10]

東京分家後

  • 妻・久良(くら)/くら子(慶應2年[注釈 11] - 1963年1月7日[75]) - 士族・大蔵省官吏であった村上知彰の六女[76]。村上知充の妹[71]
  • 長男・藤太郎 - 嘉一郎が50歳を過ぎてから生まれた唯一の実子[77]。後に根津嘉一郎 (2代目)を襲名。
  • 養女・田鶴/田鶴子(明治26年 - 没年不詳)- 眞弓萬二郎長女[73]益田信世に嫁いだ[78]のち、嘉一郎の養子となる[73][注釈 12]。1939年に嘉一郎が南米を訪問した際には同行している[80]
  • 姪・あい(明治20年1月 - 没年不詳)- 姉・登良の娘[注釈 13]。伝記には実子がいなかった時期に姪をかわいがったとあり[77]、養子相当で迎えたか[81]。後に分家[71]

脚注

注釈
  1. ^ 後の雑誌記事では、遊興費を工面するために雲外の所有物まで質入れしたため、雲外の塾を破門になったとの記載がある[21]
  2. ^ 前述の政治集会は明治14年に地元平等村の学校で行われており[16]、東京遊学の期間との不一致が見られる。
  3. ^ 結婚を明治20年(1887年)12月20日[14]とする資料もある。
  4. ^ 改名時期を明治22年とする資料がある[28]一方、裁判所の記録[16]では明治14年の時点で既に根津隆三を名乗っている。
  5. ^ 根津が高野山に建立した父母の追悼碑によれば、兄・一秀が病弱のため父から家督とを継ぐにあたり、嘉市郎を嘉一郎と改め、父は祖父の諱であった藤右衛門を名乗ったとされる[11]
  6. ^ 当時の衆議院議員選挙法では、政府の請負業務を行う個人や法人役員が被選挙権を持たないという規定が存在した。新潟市選出議員である白勢春三が当選時に新潟電灯の社長であり、新潟電灯が郵便局に電気を供給していたため、落選した対立候補の丸山嵯峨一郎が当選無効を訴え、最終的に大審院において有償電気供給も請負に該当するとの解釈とともに当選が無効とされた[37]
  7. ^ 初代会長は川崎八右衛門[44][45]
  8. ^ 叙勲は1935年末に行われたため、1935年中に発行された官報では根津の勲等が三等のままである[61]
  9. ^ 妹の名をくま[6]とする記述もみられる。
  10. ^ 1921年の資料[71]では兄・一秀を継いだ根津啓吉の本家に留まっているが、後に分家[73]。嘉一郎が1934年に建立した父母慰霊碑文でも適人[11](嫁いだ)とある。
  11. ^ 久良の生月を慶應2年9月とする資料[74]と同年12月とする資料[71]がある。前者であれば対応するグレゴリオ暦は1866年、後者であれば1867年である。
  12. ^ 松永安左エ門の著書『勇気ある自由』によれば、田鶴子は嘉一郎の仲介で益田と結婚したものの、夫の女癖に耐えられずに嘉一郎のもとへ逃げた結果、嘉一郎と男女の関係になってしまい、実質的には嘉一郎の妾であったという[79]
  13. ^ 資料には須田藤平妹[71]とある。
出典
  1. ^ a b c d e 衆議院, 参議院 編『議会制度七十年史』 11巻、大蔵省印刷局、1962年、216頁。doi:10.11501/3000139 
  2. ^ a b RailwayHistoryReview 1987, p. 1.
  3. ^ a b c d e f g h i j 『日本のリーダー 7 (実業界の巨頭)』ティビーエス・ブリタニカ、1983年、23-66頁。doi:10.11501/12255596 
  4. ^ a b 手塚, 寿男、清水, 威 編『明治・大正・昭和の郷土史 15 山梨県』昌平社、1982年3月、63頁。NDLJP:12228562/41 
  5. ^ a b 根津 1938, p. 216.
  6. ^ a b c 根津翁伝記編纂会 1961, p. 12.
  7. ^ 宇野 1941, p. 3.
  8. ^ a b 根津翁伝記編纂会, p. 2.
  9. ^ 平野 1889, p. 25.
  10. ^ a b c 『財界家系図』人事興信所、1956年。NDLJP:3026578/358 
  11. ^ a b c d e 根津翁伝記編纂会 1961, p. 16.
  12. ^ 宇野 1941, p. 11.
  13. ^ 宇野 1941, p. 12.
  14. ^ a b c 宇野 1941, p. 20.
  15. ^ a b 蘆洲村松志孝『小田切海洲先生略伝』海洲小田切謙明先生頌徳会、1936年、61頁。NDLJP:1098722/51 
  16. ^ a b c 『大審院刑事判決録 明治14年5月分』司法省、1881年、275-280頁。NDLJP:794738/146 
  17. ^ 根津 1938, p. 43.
  18. ^ 『日本現今人名辞典 訂正3版』日本現今人名辞典発行所、1903年2月、ね1頁。NDLJP:782773/371 
  19. ^ 平野 1889, p. 26.
  20. ^ 根津 1938, p. 45.
  21. ^ 市川松桃居士「根津嘉一郎の功罪一代記」『実業の世界』第23巻第10号、実業之世界社、1926年10月1日、75頁、NDLJP:10293093/60 
  22. ^ 根津 1938, p. 46.
  23. ^ 平野 1889, p. 29.
  24. ^ 宇野 1941, p. 16.
  25. ^ 根津翁伝記編纂会 1961, p. 34.
  26. ^ 根津翁伝記編纂会, p. 23.
  27. ^ a b c 「根津嘉一郎氏を悼む」『経済市場』第11巻第2号、経済市場社、1940年2月、47頁、NDLJP:1473447/25 
  28. ^ a b 根津翁伝記編纂会 1961, p. 25.
  29. ^ 後藤本馬 編『帝国議会議員選挙者名鑑』金松堂、1890年6月、36頁。NDLJP:900128/26 
  30. ^ 宇野 1941, p. 23.
  31. ^ 根津翁伝記編纂会 1961, p. 27.
  32. ^ 根津翁伝記編纂会 1961, p. 33.
  33. ^ a b 根津翁伝記編纂会 1961, p. 41.
  34. ^ 「移転 根津嘉一郎(広告)」『朝日新聞』1897年4月30日、東京朝刊、8面。
  35. ^ 宇野 1941, p. 175.
  36. ^ 根津翁伝記編纂会 1961, p. 211.
  37. ^ 工藤武重「正記(第二十一議会)第五章 重要事項」『帝国議会史 第三篇』有斐閣、1906年10月、378-381頁。NDLJP:1877070/211 
  38. ^ 「議員資格問題」『朝日新聞』1905年2月1日、東京 朝刊、2面。
  39. ^ 宇野 1941, p. 176.
  40. ^ 衆議院、参議院 編大蔵省印刷局、1962年、477頁。NDLJP:3000301/261 
  41. ^ 「請負の意義」『法学針誌』第44号、講法会、1905年3月、130-132頁、NDLJP:1493003/54 
  42. ^ 根津翁伝記編纂会 1961, p. 212.
  43. ^ 嘉一郎の関係した鉄軌道は『東武鉄道65年史』、593-595頁から以下の会社名を挙げられる。1899年房総鉄道取締役、1901年東京馬車鉄道監査役、1902年東京市街鉄道取締役、1902年東京鉄道取締役、1905年東武鉄道取締役、1909年京津電気軌道取締役、1910年富士身延鉄道取締役、1910年武蔵電気鉄道取締役、1911年宇和島鉄道相談役、1911年東上鉄道社長、1912年高野登山鉄道社長、1912年横浜鉄道取締役、1913年大湯鉄道取締役、1915年横浜電気鉄道取締役、1917年、高野大師鉄道社長、1921年東京地下鉄道取締役、1921年南海鉄道取締役、1921年西武鉄道取締役、1922年秩父鉄道取締役、1926年大社宮島鉄道社長、1927年南朝鮮鉄道社長
  44. ^ 日本火災海上保険 1995.
  45. ^ 日本火災海上保険』 - コトバンク
  46. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、36頁。
  47. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』150-151頁。
  48. ^ 根津 1938, p. 155.
  49. ^ 根津 1938, p. 153.
  50. ^ 根津 1938, p. 157.
  51. ^ a b 杉本, 清治「便所の中に四十分」『自ら生きる力』新興亜社、1941年、141-143頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1072114/82 
  52. ^ 根津 1938, p. 59.
  53. ^ 歯槽膿漏の種種相』臨牀歯科社、1941年、113頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1045884/59 
  54. ^ RailwayHistoryReview 1987, p. 3.
  55. ^ RailwayHistoryReview 1987, p. 3-5.
  56. ^ 大蔵省印刷局(編)「叙爵叙任及辞令」『官報』第7272号、1907年9月23日、464頁。 
  57. ^ a b c 根津翁伝記編纂会 1961, p. 301.
  58. ^ 大蔵省印刷局(編)「叙任及辞令」『官報』第1218号、1916年8月21日、496頁。 
  59. ^ 叙任及辞令」『官報』第3440号、大蔵省印刷局、1924年2月14日、185面。
  60. ^ 大蔵省印刷局(編)「叙任及辞令二」『官報』第2696号、1935年12月27日、20頁。 
  61. ^ 大蔵省印刷局(編)「辞令二」『官報』第2668号、1935年11月22日、1頁。 
  62. ^ 大蔵省印刷局(編)「叙任及辞令」『官報』第3898号、1940年1月8日、73頁。 
  63. ^ a b 根津翁伝記編纂会 1961, p. 302.
  64. ^ 大蔵省印刷局(編)「辞令二」『官報』第2866巻、1936年7月22日、13頁。 
  65. ^ 大蔵省印刷局(編)「辞令二」『官報』第3319号、1938年1月28日、669頁。 
  66. ^ 時事年鑑 昭和14年版』時事通信社、1938年、202頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3018587/107 
  67. ^ 日本現今人名辞典 訂正2版』日本現今人名辞典発行所、1901年12月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782772/371 
  68. ^ a b 安良城盛昭 編『貴族院多額納税者議員互選人名簿 第19巻(山梨県)』 1巻、4号、御茶の水書房〈東京大学社会科学研究所資料叢書〉、13頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11893877/12 
  69. ^ 根津翁伝記編纂会 1961, p. 年表9.
  70. ^ 宇野 1941, p. 39.
  71. ^ a b c d e f 人事興信所 編『人事興信録 6版』1921年、ね1頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13012960/603 
  72. ^ 人事興信所 編『人事興信録 第11版 改訂版 上』人事興信所、1938年、ス7頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13046228/1173 
  73. ^ a b c 人事興信所 編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年、ネ3頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13054323/1231 
  74. ^ 大日本婦人録』婦女通信社、1908年7月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779870/303 
  75. ^ 「根津 久良さん(訃報)」『朝日新聞』1963年1月9日、東京朝刊、11面。
  76. ^ 根津翁伝記編纂会 1961, p. 23.
  77. ^ a b 根津翁伝記編纂会 1961, p. 452.
  78. ^ 人事興信所 編「益田信世」『人事興信録 6版』人事興信所、1921年、ま93頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704027/847 
  79. ^ 松永, 安左衛門益田孝翁とその周辺の人々」『勇気ある自由』要書房、1953年、257-258頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2935332/133 
  80. ^ 根津翁伝記編纂会 1961, p. 200.
  81. ^ 宇野 1941, p. 260.

参考文献

関連項目

関連人物

外部リンク

先代
(新設)
東武鉄道社長
初代:1905年 - 1940年
次代
吉野伝治
先代
(新設)
日清製粉社長
初代:1906年 - 1924年
次代
正田貞一郎
先代
松沢與七
東京米穀商品取引所理事長
第3代:1910年 - 1916年
次代
指田義雄
先代
野村龍太郎
東京地下鉄道社長
第3代:1932年 - 1940年
次代
早川徳次


このページでは「ウィキペディア」から根津嘉一郎 (初代)を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から根津嘉一郎 (初代)を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から根津嘉一郎 (初代) を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「根津嘉一郎 (初代)」の関連用語

根津嘉一郎 (初代)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



根津嘉一郎 (初代)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの根津嘉一郎 (初代) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS