福島茂富とは? わかりやすく解説

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福島茂富

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/01 17:43 UTC 版)

ふくしま しげとみ

福島 茂富
福島 茂富
生誕 須田 茂富(すだ しげとみ)
1888年11月
山梨県東八代郡一宮村
死没 1950年2月15日
東京都港区麻布仲之町
国籍 日本
職業 実業家
著名な実績 精養軒社長
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福島 茂富(ふくしま しげとみ、1888年11月~1950年2月15日)は山梨県出身の経営者精養軒社長を務めた[1]

来歴

明治21年(1888年)、父・須田五郎(耕)と母とら(登良)の二男として[2]山梨県東八代郡一宮村で生まれた[3][注釈 1]。須田家は当時でも600年以上続く旧家であり、代々郡中惣代里正を務めたという[4]。母とらは根津財閥創始者であった根津嘉一郎の姉で、茂富は根津にとって甥であった。

山梨で遊興にふけったのち、24歳で故郷を離れ大磯にあった根津の別荘に住み込んだ[5]。これは茂富の放蕩をいさめるためとも言われ、根津による監禁という表現すら見られる[6]。ここで庭の手入れなど家の下働きに1年ほど従事したのち、1913年大正2年)に根津が経営するカブトビール(のちの日本麦酒鉱泉)に入社した。

ここで茂富は飲食店での自社ビール取り扱いを増やす方策として、ビール瓶の王冠を現金に引き換えるキャンペーンを立案した[7]。最初は王冠の裏に現金が当たるくじを付ける案を考えたが警察が難色を示したため、全ての王冠を3銭と引き換える方法に変更した[8]。さらに新聞広告を継続的に掲出することで広告単価の削減と消費者への訴求を両立させ、同社の主力商品であったユニオンビールの売り上げ向上を実現した[9]

1922年(大正11年)、福島りゃう(良)の養子となり[3]、翌1923年には福島家の家督を相続した[10]。根津には1913年に長男藤太郎が生まれていたが当時はまだ成人前であり、経済誌では茂富を根津の後継者と見なす報道が見られた[11][12]

日本麦酒鉱泉では支配人まで務めたが[13]1933年昭和8年)に同社が大日本麦酒と合併すると、茂富は根津財閥の一角である富国徴兵保険(後の富国生命保険)に転身し[14]、取締役として活動した。

1934年(昭和9年)、当時解散の危機にあった精養軒から会社更生の相談を受けた。再建案をまとめて銀行や株主の同意を取り付け、同年5月15日に同社の社長に就任した[9]東海道線食堂車において蒸しタオル提供のサービスを始めた[6]

さらに、茂富は根津財閥系列に留まらない様々な業種に関わるようになった。1936年には後楽園スタヂアムの設立にも関わり、取締役の任に就いた[15]。 1940年時点での主な役職は以下の通り[16]

1940年に根津が死去すると、義従兄の根津啓吉や実兄の須田宣とともに、後継者となった藤太郎(後に2代目嘉一郎を襲名)を支えた[17]

1950年(昭和25年)2月15日夕刻、脳出血のため自宅で死去。享年61[18]。同月19日に東京都港区麻布仲之町の自宅で社葬が執り行われ[19]多磨霊園に埋葬された[20]。精養軒の社長職は妻の静子が受け継いだ[21]

家族

一宮村・須田家

  • 父・五郎(資料により耕)(生没年不詳)
  • 母・とら(登良)(生没年不詳)
    • 初代根津嘉一郎の姉。
  • 兄・宣(1878年(明治11年)3月 - 1945年(昭和20年)10月15日[22]
    • 長兄であるが家督を末弟・藤平に譲り、茂富と同様に根津嘉一郎のもとで活動した。東武鉄道常任監査役などを歴任。二男の栄三郎は後に根津啓吉の養子となり、根津本家を継いだ。
  • 弟・藤平(生没年不詳)
    • 須田家の家督を継いだ。
  • 妹・あい(明治20年1月 - 没年不詳)
    • 根津嘉一郎のもとで暮らすが、後に分家。

麻布・福島家

  • 養母・りゃう(良)(生没年不詳)
    • 根津合名会社[23]や東武鉄道[24]の株主。当時の文書では、京橋[25]三十間堀にあったうなぎ屋の娘で、根津嘉一郎が頻繁に通い、金の無心もしていたという。根津の妾とする記述もあり[26]、自らの後継者候補である茂富を彼女の養子にあてがったとする報道がある[27]
  • 妻・静子(1900年(明治33年)9月7日[21] - 1996年(平成8年)8月5日)
    • 元子爵・酒井忠美の二女。三輪田高等女学校[21]。茂富の死後、精養軒社長を継承し社長・会長・相談役を歴任。音楽を志す大学生を支援するため福島育英会を設立し、財産の多くを移管した[28]。また美術品などのコレクションを根津美術館に寄贈した[29]。肺炎で死去。享年95[30]。茂富と同じ墓に埋葬された[31]
  • 養子・幸雄(? - 2002年1月9日)
    • 東京芸術大学卒業。静子社長の時代に精養軒専務取締役を務め、のち社長・会長を歴任した[32]。肝不全で死去。享年65[33]

脚注

注釈

  1. ^ [2]では東山梨郡とある。なお、一宮村の発足は茂富出生の後である。
  2. ^ 1940年に根津が死去したことに加え、堤康次郎が根津の保有株を購入したため、この時点では根津の経営上の影響力は無くなっている。
  3. ^ 横山工業所の社長であった横山公雄は、大磯の根津別邸でともに働いた間柄であった。

出典

  1. ^ 昭和物故人名録 : 昭和元年~54年日外アソシエーツ、1983年7月、422頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12210190/218 
  2. ^ a b 萩原 1932, p. 344.
  3. ^ a b 沢登 1936, p. 82.
  4. ^ 須田宣」『全日本業界人物大成 乾巻』全日本業界人物大成刊行会、1932年、65頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276653/103 
  5. ^ 萩原 1932, p. 345.
  6. ^ a b 池田さぶろ「業界人物まんが遍路(14)福島茂富氏」『保険銀行時報』第1876号、1938年5月5日、9頁。 
  7. ^ 島田 1935, p. 141.
  8. ^ 福島 1938, p. 66.
  9. ^ a b 福島 1938, p. 67.
  10. ^ 人事興信録 第11版(昭和12年) 下』人事興信所、1937年、フ31頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1072938/695 
  11. ^ 金儲の研究(其一)根津嘉一郎翁が五千萬圓儲ける迄の虎の巻研究」『実業の世界』第24巻第11号、実業の世界社、1927年11月1日、119頁。 
  12. ^ 日本麦酒鉱泉の前途」『実業時代』第6巻第3号、実業時代社、1929年3月、78頁。 
  13. ^ 島田 1935, p. 137.
  14. ^ 投資時代 1940, p. 468.
  15. ^ 後楽園スタヂアム50年史』後楽園スタヂアム、1990年4月、16頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13090949/39 
  16. ^ 法人個人職業別調査録 10版』国際探偵社、1941年、四三-472頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1683802/886 
  17. ^ 樋口, 弘『日本財閥の研究 第1 (日本財閥の現勢)』味灯書屋、1948年、100頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459441/60 
  18. ^ 逝ける人々」『出版年鑑 1951年版』出版ニュース社、1951年、63頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2992211/37 
  19. ^ 「福島茂富氏、森上才五郎氏_死去」『朝日新聞』1950年2月17日、東京朝刊、2面。
  20. ^ 小村, 大樹. “福島茂富”. 歴史が眠る多磨霊園(移転先). 2025年7月29日閲覧。
  21. ^ a b c 福島静子」『人事興信録 第16版 下』人事興信所、1951年、ふ8頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2997929/236 
  22. ^ 東武鉄道六十五年史』東武鉄道、1964年、962頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2504143/1061 
  23. ^ 帝国銀行会社要録 昭和14年(27版)』帝国興信所、1939年、496頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1115245/445 
  24. ^ 銀行会社要録 : 附・役員録 19版』東京興信所、1915年、142頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936324/105 
  25. ^ 宮崎憲文 編『東京附一府六県職業明鑑 再版』工友社、1913年、1014頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945700/556 
  26. ^ 鈴木孝一 編『ニュースで追う明治日本発掘 6 (足尾鉱毒・娼婦自由廃業・暴露合戦の時代)』河出書房新社、1995年4月、70頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13270543/39 
  27. ^ 市川松桃居士「根津嘉一郎の功罪一代記(1)」『実業の世界』第23巻第10号、実業之世界社、1926年10月1日、77頁。 
  28. ^ 組織概要”. 一般財団法人福島育英会. 2025年7月29日閲覧。
  29. ^ 福島コレクション展 : 近世調度品を中心として』根津美術館、1981年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12705567 
  30. ^ 「福島静子さん(死去)」『日本経済新聞』1996年8月7日、朝刊、35面。
  31. ^ 小村, 大樹. “福島静子”. 歴史が眠る多磨霊園(移転先). 2025年7月29日閲覧。
  32. ^ 「精養軒、新社長に御園生碧樹氏」『日経産業新聞』1995年3月24日、31面。
  33. ^ 「福島幸雄氏(死去)」『日本経済新聞』2002年1月15日、朝刊、31面。

参考文献

  • 萩原, 為次「麦酒鉱泉の三羽烏」『素裸にした甲州財閥』山梨民友新聞社東京特置事務所、1932年、342-346頁。NDLJP:1279829/190 
  • 島田, 信三「福島茂富氏」『保険界の人物』保険研究所、1935年、137-143頁。NDLJP:1437971/77 
  • 沢登, 幸寿 編「福島茂富氏」『山梨県勢総覧』山梨県史誌刊行会、1936年、82-83頁。NDLJP:1687917/1015 
  • 福島, 茂富「燈火の思ひ出 ユニオン麦酒の販売戦と更生・精養軒の当時の整理案」『東邦経済』第8巻第12号、東邦経済社、1938年12月、66-67頁、NDLJP:2240512/42 
  • 「創意と考案に富む福島茂富の事業経営」『興亜財界新人譜』投資経済社出版部、1939年、276-285頁。NDLJP:1262177/142 
  • 「福島茂富氏」『興亜聖業財界人譜』投資時代社、1940年、457-459頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280758/233。 

関連項目




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