東上鉄道
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「国鉄400形蒸気機関車」の記事における「東上鉄道」の解説
1914年に400 - 402号機が東上鉄道(現・東武鉄道東上本線)に譲渡されてA1形1 - 3号機となり、1920年7月の東武鉄道との合併に伴いC3形41 - 43号機となり、さらに1924年に鉄道院から譲り受けたB5形41 - 50号機(元6200形)を導入した時点で51 - 53号機に改番された。その後、51, 53号機は1938-39年に日本製鐵に譲渡され、52号機は1941年に三井鉱山三池港務所に譲渡されて21号機となり、1951年には三井鉱山美唄鉱業所に移って同番号で使用された。
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東上鉄道(現東武東上線)
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「星野仙蔵」の記事における「東上鉄道(現東武東上線)」の解説
衆議院議員だった頃から東上鉄道(現、東武東上線)敷設に多大な貢献をし、東上鉄道の創業当初は監査役に就任した。 1902年(明治35年)、星野は綾部利右衛門ら川越商人7名と埼玉県の川越から直線で東京へ結ぶ鉄道(京越鉄道)の敷設を計画、星野は川越地方地元側の中心的な役割を果たした人物として東上鉄道(現東武東上線)の建設に尽力する。1904年(明治37年)に衆議院議員初当選の同期議員で、後に「鉄道王」と呼ばれた当時の著名な実業家初代根津嘉一郎から東上鉄道建設計画の話を聞いて、地元財界側の有力者として惜しみない協力を申し出た。 星野は回漕問屋「福田屋」の当主だったが、河川改修と鉄道の出現などで新河岸川舟運を見限り、東上鉄道の開通に力を注いだ。その後、星野は1911年(明治44年)11月11日の東上鉄道創立総会で、監査役として地元側としてただ一人同社の経営陣に入った(取締役社長には根津が就任)。1914年(大正3年)5月1日に待望の東上鉄道の池袋駅 - 田面沢駅間が開通。星野のお膝元である上福岡駅や鶴瀬駅には駅開業の記念碑が残っており、星野の偉業を讃えている。
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