本来の王朝:伝統的な解釈と人造的な作成の対立
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「ホールファグレ朝」の記事における「本来の王朝:伝統的な解釈と人造的な作成の対立」の解説
ホールファグレ朝は、伝統的には統一ノルウェー王国における最初の王朝と見做されている。この王朝は、872年にハフルスフィヨルドの戦いで最後に抵抗する諸王を破り、Haraldr hinn hárfagri (ハーラル金髪王ないし美髪王)として知られている初代ノルウェー国王 ( "ノルウェーにて"対立する者として) ハーラル1世によって創始された。 伝統的な解釈によると、ハーラル1世没後、その最初の統一ノルウェー王国は彼の男系子孫によって継承された。このことは13世紀に成文化された。他のスカンディナヴィアの君主国やアングロ=サクソン朝イングランドとは異なり、ノルウェーは選挙的な君主制ではなかった。 しかしながら、ハーラル1世没後の最初の100年間は、王国は事実上、王ではなくノルウェー北部から来たラーデのヤール(侯) (古ノルド語: Hlaðir)の1人に支配されていた時代が幾つか存在した。最初の時代は、ハーコン・シグルザルソン (Hákon Sigurðarson 'ヤルル・ハーコン'とよく呼ばれている)統治下の975年頃から995年頃までである。 また、ハーラル1世の王国が統一ノルウェーの中核であったにも係わらず、それは未だに小さく、権力の中心は南部のヴェストフォルであった。その上、ハーラル1世が死ぬとその息子達の間で王国は分割された。 何人かの歴史家は、君主による支配権は事実上、ノルウェー全土に及んでいたことを強調して、1015年から統治を行ったオーラヴ2世 (オーラヴ強王、後に聖オーラヴとなる)が最初にノルウェー全土を支配した王であると断言する。オーラヴ2世は概して強制的にノルウェーを最終的にキリスト教に改宗させて後にRex Perpetuum Norvegiæ (ラテン語: 永遠なるノルウェー王)として崇拝された。幾つかの地区は、ハーラル3世 (ハーラル苛烈王、在位:1046年 – 1066年)以前は、ホールファグレ朝の支配下には事実上おかれてはいなかった 。それ故に、これらのいずれもがノルウェーの更なる統一と見做されうる。加えて、ハーコン・シグルザルソンを含む何人かの君主は名目上、もしくは事実上、デンマーク国王の封臣であった。 マグヌス4世 (マグヌス盲目王、在位:1130年– 1135年及び1137年– 1139年)までの後代の国王がハーラル3世の子孫( ' シュル朝')であることには異存がない。しかしながら、現代、多くの学者はハーラル3世が本当にハーラル1世の子孫であったこのか (例えば、ハルフダンはシグル・シュルの父と同一人物なのか、あるいはハーラル1世がスノーフリードと呼ばれたサーミ人の少女との間に シグル・リースをもうけたのかという問題)、そしてハーラル3世自身が実際にそのような主張をしたのか、この家系は 12世紀に創作されたのではないかと疑っている。スヴェレ・シグルツソンのシグル2世 の息子であるという主張もまた大概、偽造であると見做されており、インゲ2世 (Inge Bårdsson)が王朝最後の国王ということになる。 現在、学者達は、ホールファグレ王朝は少なくとも部分的には中世における改竄上の産物であると見做している。 その動機の一つに、支配者達に王国の創始者に遡る明確な王家の祖先を与えることによってその正当性を高めることが考えうる。その他の動機には、王家に血筋を繋げることによって、その他の人々に由緒正しい血筋を供給することがあった。王家の末裔の異伝はアイスランドのスカルド及び歴史家による幾つかの作品に伝わっており、その内の幾つかは現在失われたフヴィンのシヨドルヴによる『ユングリンガ・タル 』、セームンドル・シグフースソンの失われた作品の内容が伝わる『 ノルウェー王の一覧 』、及びスノッリ・ストゥルルソンによる最長編のサガで今では失われたアリ・ソルギルスソンの『 アイスランド人の書 』の内容を伝える『ヘイムスクリングラ 』 に依拠している。これらの相違は幾つかの点で考慮が入れられる。en:Joan Turville-Petreは上記の伝承を精査して 、その本来の目的を即位紀元の年代の枠組みを確立させてアイスランドの首長に結び付けることにあり、そして王朝のヴェストフォル起源は巧みに改変されてアイスランドの伝承に合わせる形でシールディング一族よりもスウェーデン人のユングリング家に結び付けられたと論じた。 Claus Kragは重要な動機としてオスロ周辺地域である ヴィーキンに対する世襲の請求権の確立にあると論じた。何故ならば同地域はデンマーク国王に税金を払ってきたからである。 Turville-Petreは「ハーラル3世の祖先の決定的な再編は恐らくその200年後にアイスランド人によって行われた」と述べる。即ち、ハルフダン黒王を王朝の始祖とし、ハーラル1世からオーラヴ1世・トリグヴァソン、オーラヴ2世そしてハーラル3世に至る3つの王家の分家をこじつけたとする。 ハーラル3世の父親が正真正銘のハーラル1世の多少不明瞭なところがある年少息子の男系子孫なのか 、そしてその他謎の多いオーラヴ2世とは本当に男系で繋がりはあるのかという疑念は特に歴史学者の間で取り上げられてきた。オーラヴ2世とハーラル3世の王位請求は系譜の改竄によって高められたと主張されている。何故ならば両人はオースタ・グッドブランドスダッタールを同じ母親とするものの、伝統的なゲルマン人の法の観点からすると母親の子孫であることは重要な意味をなさないからである。 今日の批判的な観点からすると、930年から1030年の間にかけて、ホールファグレ朝による王の統治は僅かに3世代40年間続いた。恐らくは12世紀の改変によってホールファグレ朝に繋げたであろうオーラヴ1世とオーラヴ2世の一族は18年間統治し、それに続いてハーラル3世が新王朝を創始した。ホールファグレ朝を称する王朝には概して、ハーラル1世、オーラヴ1世、オーラヴ2世、ハーラル3世、マグヌス5世、スヴェレ以下の6つの王朝が含まれている。
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