新形通勤電車構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 01:25 UTC 版)
1960年代の運転形態は、内側線を近距離快速電車と普通電車が、外側線を貨物・特急・急行などに混じって中距離快速電車(列車)が運転されていた。ラッシュ時は1時間に内側線の快速が4本、普通電車が8本の構成(これ以外に吹田駅 - 尼崎駅間の小運転系統が4本)であったが、毎年増え続ける通勤輸送対策のため、1時間の運行本数を近距離快速電車で6本、普通電車で12本に増強する方針を立てた。外側線の中距離快速の増発は貨物や特急・急行列車などの列車密度の関係と、芦屋駅や高槻駅には外側線にホームがないという構造上の問題があったためである。内側線では普通電車は快速電車の通過待ち合わせが発生するが、10分という快速電車の運転間隔で2本の普通電車が合間を縫って次の待避駅まで後続の快速電車から逃げ切るには、低性能な緩行用旧型国電では無理で高加速・高速・高減速性能により快速電車とほぼ平行ダイヤが組めるようなが車両が必要になる。その条件を満たす性能として大鉄では4扉ロングシート、歯車比が1:4.82程度、250%乗車時での均衡速度は103km/h程度、平均加速度は1.3km/h/sという車両を要求した。 昭和30年代後半におけるラッシュ輸送は飽和状態で、昭和38年11月時の朝ラッシュ時30分あたりの混雑率は、東淀川駅→大阪駅間で普通電車が303%、快速電車が294%、塚本駅→大阪駅間で普通電車が282%、快速電車が333%となっており、昭和39年度電車転属要求会議において大阪緩行新形式電車取替用として318両の要求をしている。しかし、当時のラッシュ時の近距離快速電車の編成は15分間隔で6両 - 10両であり、国鉄本社は快速増発のために新形式が必要というのであれば、むしろ増発せずに増結すれば良いとの意見などもあり、大鉄の高性能電車については今後の課題として体良く却下されている。 さらに1964年(昭和39年)10月1日改正からは快速電車に113系新性能電車が投入されはじめると、旧型国電による普通電車との性能差は開く一方となる。この頃大鉄局の考え方にも柔軟性が出てくる。線路使用状況の変化によっては各駅停車用に特化した高性能通勤型電車ではなく103系のような在来型も適するという意見がそれである。これは、外側線に快速を増発できるようになれば輸送力増強の目的は達せられ、普通電車用に特化した高性能通勤型電車を求めなくても良いということで、1966年10月からは芦屋駅・高槻駅が外側線からホームに入れる駅構造に変更になって内側線の快速の一部を外側線走行に変更し増発しており、大鉄局が求める高性能通勤型電車の必要性はこの段階で薄れてきたと言える。その結果、1970年の万博輸送を前にした車両増備要求調書に大鉄局は淡々と103系の要求を書き入れている。 103系電車の構想時には、常磐線や京阪神緩行線は新形通勤電車の投入想定線区には入っていたが、103系自体の設計では対象外とされ(詳細は国鉄103系電車#標準形通勤電車の設計へ参照)実際に投入するに際しては何らかの手直し等が必要と認識されていた。103系は首都圏の通勤路線事情(駅間距離・表定速度・電力事情等)に適した設計で、60 - 80km/h程度でノッチオフすることが前提であり、高速運転への配慮が必要な京阪神緩行には線区特性上適しているとはいえなかった。ただし、設計段階で週末の臨時電車として使う事を想定しており高速性能を高めるために界磁を35%まで弱める設計としていたので、最高速度が95km/hに制限される既存の通勤用旧型国電に比べて高速性能は向上している。 また、昭和40年度から2km台の駅間距離のある京浜東北線での運用開始に際し、103系のギア比を少し高速よりにセッティングすることや、MT54による通勤電車の可能性を模索したものの、結局現状の103系と大きな違いは認められず、逆に103系の優位性が確認できたことから、駅間距離が2kmを超えるような線区でも特に手直しなく103系が使えるとされた。その後昭和41年度より京浜東北線よりも駅間距離が長い常磐線に投入されることになるが、ちょうどメンテナンスフリーのディスクブレーキ付台車が完成したこともあり、付随車・制御車の台車をディスクブレーキ付きにはしたものの、先に京浜東北線投入時の研究結果があったために、性能に抜本的な変更をする必要は無かった。
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