憲法制定と大統領選挙
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「フランス第二共和政」の記事における「憲法制定と大統領選挙」の解説
この間に憲法制定議会は、1)労働権、2)一院制、3)大統領選挙方法、4)大統領選挙期日をめぐって討議を展開した。 革命の初期には熱烈に支持された労働権は「夢想家の感傷」だとか「職を持たない労働者に40スー(2フラン)の日当をやるための結構な発明品だ」とか揶揄された。結局「労働と産業の自由」が明記されることとなり、労働権は憲法から削除されることになった。続いて一院制に関して、バローは下院の独走を防ぐために第二院を設置することを求めたが、同時に執行府の独裁を阻止するために強力な一院制を設置することが決定、議会に対して参事院が設置され、立法審査のためのチェック機構となることが決した。大統領については独裁者の登場が危惧され、国民投票ではなく議会による指名という方式も検討された。しかし、ラマルティーヌは大統領選に復権の機会を願っており、「いくらかは神の意志に残されるべきだ」と訴えて国民投票を強く支持した。大統領は国民投票によって直接選出することが決定され、大統領選挙は12月10日に実施することが定められた。 議会は憲法の草案を完成させ、11月4日に議会で賛成796票・反対30票で採択され、12日に公布されることになった。このとき、戒厳令下での憲法制定は違法であるとして極右と極左が共に反対票を投じた。極左の代表者であったプルードンやピエール・ルルーは労働権の削除に反対して抗議した。 11月4日に憲法が採択され、第二共和政の政体が決められた。アメリカ合衆国の政治形態がモデルとなっており、議会(立法府)と大統領(行政府)は対等の関係であり、大統領は国民議会から独立して首相と閣僚を任免する権限を持つが、代わりに議会解散権は有さなかった。そのため大統領と議会が対立した場合には行政と立法間の捻じれの解消は困難であった。大統領・国会議員ともに成人男子による直接選挙で選出されるが、大統領選挙は有効投票数の過半数かつ最低200万票の得票が必要とされ、条件を満たした候補がいない場合には上位者5名の中から国民議会が決めるという制度になっていた。また、大統領の任期は4年であり、連続再選はできなかった。憲法からは長期政権を維持して政治の持続的なかじ取りが不可能な規定になっていた。こうした矛盾が後に致命的な落とし穴となっていく。 11月12日、カヴェニャックは憲法制定を祝してコンコルド広場で祭典を催したが、当日は早くも雪が降りしきり、軍と政府の高官ならびに司祭の列席があったものの一般民衆はこれに参加しなかった。祭典は軍と宗教によって財産家の秩序が勝利したという点を強調するものとなった。民衆が祭典に参加しなかったのは天候だけが理由ではない。民衆は王政に対して立ち上がったものの、その後に革命の成果と恩恵に十分に浴することができなかった。最大の理由は政府による弾圧を受けるに至った六月蜂起の傷が癒えていなかったためである。このような国民感情の悪化は大統領選挙に影響を及ぼした。 第二共和国憲法に従って大統領選挙が12月10日に行われることとなった。1848年フランス大統領選挙(フランス語版)にはカヴェニャック将軍、ラマルティーヌ、ルドリュ=ロラン(フランス語版)、ラスパーユ(フランス語版)、シャンガルニエ(フランス語版)将軍、そしてルイ・ナポレオンが出馬した。大統領選は有権者となってい久しい全国各地の民衆票を獲得することに主眼が置かれ、政策論争ではなく候補者間の中傷合戦で終始していった。 その結果、ルイ・ナポレオンがナポレオン1世の甥という出自を生かして各層の幅広い支持を得、543万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝した。二位がカヴェニャックで144万票(得票率19.8%)を獲得。三位ルドリュ=ロランが37万票(得票率5%)、四位ラスパーユが3万6千票(得票率0.5%)、5位ラマルティーヌが1万7千票(得票率0.2%)6位シャンガルニエが4700票(得票率0.06%)という結果であった。 カヴェニャックは大ブルジョワと主要メディアの支持を獲得し、議会共和派の全面的な信任を受けて立候補したが、共和派を結集することができず惨敗した。また、共和派の指導者ルドリュ=ロランとラマルティーヌは共に二月革命とその後の第二共和政の立役者であったが両者は新憲法を支持して曖昧な態度を採ったため決断力と指導力に欠けると見られ、また、カヴェニャックと同様「6月蜂起」での労働者への弾圧に対する嫌悪感から投票は忌避され、労働者の票は5月15日の議会乱入事件(英語版)で逮捕され獄中立候補していたラスパーユに流出した。共和派は候補者の絞り込みもできず票が分散して民衆の支持も得られず敗北したのである。 一方、ルイ・ナポレオンは秩序、宗教、家族、財産の擁護を前面に出し、戦争と帝政の復活への警戒感を和らげながら選挙戦を戦い、共和派の躍進と革命の続行を警戒する保守派と地方の農民層の支持を得た。また、ロシアなどの反動国家や主要な銀行から資金援助を受けて豊富な選挙資金を確保し、シャンソンをつくったりビラをまいたり口コミを生かした地道な広報戦略を駆使した。彼はラマルティーヌのような優柔不断なイメージ、カヴェニャックのような弾圧者のイメージもなく、ナポレオンの名を利用して人々の期待感を煽って多くの民衆の支持を得た。瞬く間に泡沫候補者から有力候補者へと駆け上がり、大統領選の当選者になったのである。
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