広岡イズムで悲願の日本一とは? わかりやすく解説

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広岡イズムで悲願の日本一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 20:01 UTC 版)

広岡達朗」の記事における「広岡イズムで悲願の日本一」の解説

1973年ヤクルトスワローズから監督要請を受けるが、ヤクルトには打撃コーチ早稲田大学時代先輩である荒川博がおり、先輩差し置いて監督になるわけにはいかないとして辞退守備コーチとして入団した監督には荒川昇格した)。コーチには広岡以外に小森光生沼澤康一郎がおり、監督合わせた早大カルテット」として大い話題になった。これは当時明治神宮外苑長だった伊丹安広の「神宮東京六大学メッカ六大学卒業生使ってくれないか」との意向沿ったもので、この年一軍コーチ全員東京六大学OBだった。 1976年にはヘッドコーチ昇格し同年シーズン途中6月17日休養した荒川後任として監督就任した当時ヤクルトオーナー松園尚巳方針家族主義的なチームカラーだったが、広岡は「広島以上にぬるま湯」としてプロとして弛緩した雰囲気流れていると判断したシーズン入って故障者が続出したことで、広島時代根本進言して実践した選手食生活管理行い正式に監督就任した1977年以降は「麻雀・花札ゴルフ禁止」「禁酒練習休み前日のみ食事時に可)」「(骨を酸化させるとして)炭酸飲料禁止その代わりプラッシー飲ませた)」「ユニフォーム姿では禁煙」「練習中の私語禁止」を打ち出し選手生活態度に対して厳し規制打ち出した投手陣整備には堀内庄招聘守備重視広岡イズム浸透させるために、キャンプから守備走塁重視した練習メニュー試合方針打ち出した投手陣優先的に整備し荒川監督時代巨人戦エース級の松岡弘先発安田猛中継ぎ浅野啓司抑え起用して連敗が続くような采配をしていたが、メジャーリーグのようなローテーション確立目指して、先の3人に鈴木康二朗会田照夫加えて5人で先発回した先発投手には中継ぎ起用させないこととし抑え井原慎一朗任命この年加入したチャーリー・マニエルには守備練習を行わなければ起用しないと厳しく接す一方水谷新太郎遊撃手として辛抱強く育て上げた。当然、突然の方針転換当初選手から反発受けたこの方針は成功しチーム球団史上初のシーズン2位に導く結果となった。しかし広岡満足せず、まだ基礎体力充分でない判断して、ドジャースタウンで見た立派なトレーニング施設思い出し専門家指導によるウエイトトレーニング導入した当時シーズンオフトレーニングを行う発想はなく、不平不満発する選手もいた。さらに、シーズン2とはいえ首位巨人とは7勝19敗と大きく負け越しており、「巨人コンプレックス払拭しない限り優勝はない」という理念の下、松園米国キャンプ直談判する。しかし松園は「(ヤクルト工場がある)ブラジルならいい」と返答したため、広岡は「それは出来ません」と拒否する。さらに松園から「負けたどうする?」と聞かれたことに「責任取って辞めます」と発言ヤクルト球団初の海外キャンプアリゾナ州ユマ実施された。ユマパンチョ伊東紹介よるもので、現地においてサンディエゴ・パドレス選手練習合間黙々とウエイトトレーニングやっている姿を実際に選手が目で見ることが出来たのは大きな収穫になったチーム悲願の日本一輝いたことで、これ以降海外キャンプ実施するチーム増えることになった1978年は、ユマキャンプでデーブ・ヒルトン直接自分の目で実力判定した上で採用したほか、森昌彦バッテリーコーチとして招聘する広岡意向受けて選手私生活細かく管理し広岡データ基づいて巨人戦対策強化する前年続いてキャンプからシーズン開幕後も休日無し守備中心練習行った開幕当初つまずいたが、ヒルトン角富士夫1・2番コンビを組ませた作戦が当たり、若松勉、マニエル、大杉勝男中軸調子上がると強力打線が力を発揮し5月からペナントレース争い加わり前半戦終了時首位折り返した球宴休み期間の激励会で、後援会関係者会話した際に「巨人に勝つとヤクルト商品売れなくなる。優勝しなくてもいいから」と言われショックを受け、後半戦に入ると調子落とし8月25日時点巨人4.5ゲーム差つけられ優勝絶望見えたが、福富邦夫若松大矢明彦船田和英らを中心にチーム結束巨人失速もあり、多く逆転勝利収めて快進撃続け10月4日球団創設初のリーグ優勝決めた優勝決定後広岡真っ先抱き着いて頬ずりまでしたのは選手ではなくオーナー松園だった。日本シリーズでは4年連続日本一を狙う阪急ブレーブスとの対戦となり、世間予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが、ここでもヤクルト阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。「阪急との日本シリーズ圧倒的に不利との前評判勝てたのはヤクルトの方がベストコンディションだったからで、阪急は六・七分、その上有馬温泉休んでいたから、心のスキがあったんだろう」と話している。 広岡日本一になった時点ヤクルト退団決意したが、フジサンケイグループから「優勝監督を『契約切れ』といって放出した商売ならない」と慰留を受け、新たに3年契約結んだ。この契約の際に現場のことは全面的に広岡任せ協力する約束交わしたが、チーム補強のために意図したロッテ山崎裕之獲得トレード合意段階決まって球団上層部からクレーム付き次々潰されていった広岡はこれを「トレード予定していた選手残留訴えたため」と述べている。 1979年優勝候補一角だったが開幕から8連敗喫して低迷球団社長佐藤邦雄選手から不評だった広岡無断バッテリーコーチから解任し、投手コーチ植村義信二軍降格させようとした。これを知った広岡球団人事案を巡って対立し8月17日辞任申し出たが、佐藤から「じゃ辞めろ」と素っ気無く言われ広岡植村の3人が同時に8月29日付け正式に退団した

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