広岡イズムで悲願の日本一
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「広岡達朗」の記事における「広岡イズムで悲願の日本一」の解説
1973年にヤクルトスワローズから監督要請を受けるが、ヤクルトには打撃コーチに早稲田大学時代の先輩である荒川博がおり、先輩を差し置いて監督になるわけにはいかないとして辞退、守備コーチとして入団した(監督には荒川が昇格した)。コーチには広岡以外に小森光生、沼澤康一郎がおり、監督と合わせた「早大カルテット」として大いに話題になった。これは当時の明治神宮外苑長だった伊丹安広の「神宮は東京六大学のメッカ。六大学の卒業生を使ってくれないか」との意向に沿ったもので、この年の一軍コーチは全員が東京六大学OBだった。 1976年にはヘッドコーチに昇格し、同年のシーズン途中の6月17日に休養した荒川の後任として監督に就任した。 当時のヤクルトはオーナー・松園尚巳の方針で家族主義的なチームカラーだったが、広岡は「広島以上にぬるま湯」としてプロとして弛緩した雰囲気が流れていると判断した。シーズンに入って故障者が続出したことで、広島時代に根本に進言して実践した選手の食生活管理を行い、正式に監督に就任した1977年以降は「麻雀・花札・ゴルフの禁止」「禁酒(練習休みの前日のみ食事時に可)」「(骨を酸化させるとして)炭酸飲料の禁止(その代わりにプラッシーを飲ませた)」「ユニフォーム姿では禁煙」「練習中の私語禁止」を打ち出し、選手の生活態度に対して厳しい規制を打ち出した。投手陣整備には堀内庄を招聘、守備重視の広岡イズムを浸透させるために、キャンプから守備走塁を重視した練習メニューと試合方針を打ち出した。投手陣を優先的に整備し、荒川監督時代に巨人戦でエース級の松岡弘を先発、安田猛を中継ぎ、浅野啓司を抑えで起用して連敗が続くような采配をしていたが、メジャーリーグのようなローテーション確立を目指して、先の3人に鈴木康二朗、会田照夫を加えて5人で先発を回した。先発投手には中継ぎ起用はさせないこととし、抑えに井原慎一朗を任命、この年に加入したチャーリー・マニエルには守備練習を行わなければ起用しないと厳しく接する一方、水谷新太郎を遊撃手として辛抱強く育て上げた。当然、突然の方針転換に当初は選手から反発を受けたがこの方針は成功し、チームを球団史上初のシーズン2位に導く結果となった。しかし広岡は満足せず、まだ基礎体力が充分でないと判断して、ドジャースタウンで見た立派なトレーニング施設を思い出し、専門家の指導によるウエイトトレーニングを導入した。当時はシーズンオフにトレーニングを行う発想はなく、不平不満を発する選手もいた。さらに、シーズン2位とはいえ、首位・巨人とは7勝19敗と大きく負け越しており、「巨人コンプレックスを払拭しない限り優勝はない」という理念の下、松園に米国キャンプを直談判する。しかし松園は「(ヤクルトの工場がある)ブラジルならいい」と返答したため、広岡は「それは出来ません」と拒否する。さらに松園から「負けたらどうする?」と聞かれたことに「責任を取って辞めます」と発言、ヤクルト球団初の海外キャンプがアリゾナ州ユマで実施された。ユマはパンチョ伊東の紹介によるもので、現地においてサンディエゴ・パドレスの選手が練習の合間に黙々とウエイトトレーニングをやっている姿を実際に選手が目で見ることが出来たのは大きな収穫になった。チームは悲願の日本一に輝いたことで、これ以降、海外でキャンプを実施するチームが増えることになった。 1978年は、ユマキャンプでデーブ・ヒルトンを直接、自分の目で実力を判定した上で採用したほか、森昌彦をバッテリーコーチとして招聘する。森は広岡の意向を受けて選手の私生活も細かく管理し、広岡は森のデータに基づいて巨人戦の対策を強化する。前年に続いてキャンプからシーズン開幕後も休日無しで守備中心の練習を行った。開幕当初はつまずいたが、ヒルトンと角富士夫で1・2番コンビを組ませた作戦が当たり、若松勉、マニエル、大杉勝男の中軸の調子が上がると強力打線が力を発揮し、5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した。球宴休み期間の激励会で、後援会関係者と会話した際に「巨人に勝つとヤクルト商品が売れなくなる。優勝しなくてもいいから」と言われショックを受け、後半戦に入ると調子を落とし、8月25日の時点で巨人に4.5ゲーム差をつけられて優勝は絶望に見えたが、福富邦夫、若松、大矢明彦、船田和英らを中心にチームが結束、巨人の失速もあり、多くの逆転勝利を収めて快進撃を続け、10月4日に球団創設初のリーグ優勝を決めた。優勝決定後、広岡に真っ先に抱き着いて頬ずりまでしたのは選手ではなくオーナーの松園だった。日本シリーズでは4年連続日本一を狙う阪急ブレーブスとの対戦となり、世間の予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが、ここでもヤクルトは阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。「阪急との日本シリーズで圧倒的に不利との前評判で勝てたのはヤクルトの方がベストコンディションだったからで、阪急は六・七分、その上、有馬温泉で休んでいたから、心のスキがあったんだろう」と話している。 広岡は日本一になった時点でヤクルトの退団を決意したが、フジサンケイグループから「優勝監督を『契約切れ』といって放出したら商売にならない」と慰留を受け、新たに3年契約を結んだ。この契約の際に現場のことは全面的に広岡に任せ、協力する約束を交わしたが、チーム補強のために意図したロッテの山崎裕之の獲得・トレードは合意の段階で決まって球団上層部からクレームが付き、次々に潰されていった。広岡はこれを「トレードに予定していた選手が残留を訴えたため」と述べている。 1979年も優勝候補の一角だったが開幕から8連敗を喫して低迷、球団社長の佐藤邦雄は選手から不評だった森を広岡に無断でバッテリーコーチから解任し、投手コーチの植村義信を二軍に降格させようとした。これを知った広岡は球団人事案を巡って対立し、8月17日に辞任を申し出たが、佐藤から「じゃ辞めろ」と素っ気無く言われ、広岡、森、植村の3人が同時に8月29日付けで正式に退団した。
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