幅広い活動 - シュルレアリスム離反
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「フィリップ・スーポー」の記事における「幅広い活動 - シュルレアリスム離反」の解説
スーポーはシュルレアリスムだけではなく、他の雑誌にも寄稿していた。たとえば、『エクリ・ヌーヴォー』誌と後続誌『ルヴュ・ウーロペエンヌ』のような国際的な雑誌への参加を誘ったのはジェイムズ・ジョイスであり、スーポーはポール・ヴァレリー、エドモン・ジャルー(フランス語版)、ヴァレリー・ラルボーらとともに編集委員を務め、アラゴン、ツァラ、サンドラール、ルヴェルディ、ヴァレリーのほか、シャーウッド・アンダーソン、コレット、ドストエフスキー、トーマス・マンなどの主に未発表原稿を掲載した。また、マルセル・アルラン、ジャン・カスー、ポール・クローデル、ジュール・シュペルヴィエルなど多彩な寄稿者による、より一般的な文芸雑誌『フイユ・リーブル』にアンリ・ルソー、アンナ・ド・ノアイユ、ジャン・ジロドゥなどに関する記事、『ジュルナル・リテレール(フランス語版)』にクロード・モネのインタビューを掲載したり、パナイト・イストラティの著書『キラ キラリナ』や、アンリ・ブレモン(フランス語版)やビセンテ・ブラスコ・イバニェスなどのカトリック作家を紹介し、さらに『新フランス評論』誌にはウィリアム・ブレイク、ジョイスの翻訳を掲載するなど、幅広い執筆活動を行った。 だが、こうした活動は、映画・音楽評論家としても活動していたロベール・デスノスの場合と同様に、シュルレアリストらには運動の方針に背くジャーナリズム活動とみなされた。また、アラゴン、ブルトン、エリュアール、ミシェル・レリス、バンジャマン・ペレ、デスノスらのシュルレアリストは次第に共産主義に傾倒し、アンリ・バルビュスが1919年に発表した『クラルテ』を契機として共産主義知識人らが起こした国際的な反戦平和運動の機関誌『クラルテ』に寄稿するようになったが、共産主義との関わりはこの後、次第に運動内の分裂の契機となり、1926年から27年にかけてブルトン、アラゴン、エリュアール、ペレが共産党に入党したのに対して、スーポーはデスノス、アルトーとともに(共産主義の思想とは別に)政党に関わることは拒否した。この結果、スーポーは1926年に「文学的すぎる」という理由で除名された。スーポーはこれに対して、ゲーテを引用して、「詩人が政党に属すると、詩情が失われる」と反論した。 ただし、完全に決別したわけではなく、スーポーは当時、アラゴンをはじめとするシュルレアリストの書籍を多く出版していたサジテール出版社(フランス語版)(または創設者の姓からクラ出版社とする場合もある)の編集委員を務めていたが、こうした活動は1930年頃まで継続し、また、1930年に、ジョルジュ・バタイユを中心に、ミシェル・レリスらシュルレアリスムから離反した作家がブルトン批判の小冊子『死骸』(上述のアナトール・フランス批判の小冊子『死骸』のパロディー)を発表したときにも、これに参加していない。 離反後、スーポーは講演旅行のためにイタリア各地、プラハ(チェコ)、ミュンヘンやフランクフルト(ドイツ)などを訪れた。プラハではロートレアモンに関する講演を行い、これに強い関心を抱いた評論家・コラージュ作家のカレル・タイゲがスーポーの協力によって『マルドロールの歌』のチェコ語版を出版することになった。また、執筆活動もむしろ詩作から離れて、上述のルノー兄弟を中心にブルジョワ社会を批判する自伝『ある白人の物語』や小説『大人物』、アンリ・ルソー、ウィリアム・ブレイク、ジャン・リュルサ(フランス語版)、パオロ・ウッチェロらの画家の評伝、黒人音楽(ジャズ)を紹介する『ネーグル(ニグロ)』や『モン・パリ変奏曲』(直訳「パリの最後の夜々」)、黒人のダンスを中心とした舞踊評論『テルプシコラー』、映画評論『シャルロ』(チャーリー・チャップリンの愛称)などを次々と発表した。特にルノー兄弟を描いた小説『大人物』は大成功を収めたが、激怒したルイ・ルノーはこの小説をすべて書店から買い占めるほどであった。一方、『ネーグル』は、モンマルトルでジャズクラブに出入りしていた経験から書かれた小説であり、代表作『モン・パリ変奏曲』は、米国人特派員・翻訳家で『ル・モンド』紙の映画欄も担当していたハロルド・サレムソン(英語版)が出版翌年の1929年4月の『ユーロープ(欧州)』誌第76号に好意的な書評を寄せ、後に米国で翻訳が出版され、大成功を収めることになる。 とはいえ、実際、詩作活動だけで生計を立てることが難しくなり、ますますジャーナリズム活動に関わるようになり、取材のために米国、ソビエト連邦、ドイツなどを訪問した。1933年、ドイツ生まれの写真家・翻訳家ネータ・エルナ・ニーマイヤー(レ・スーポー(フランス語版))と出会い、1937年に結婚した。彼女とは晩年に世界の児童文学を紹介する『五大陸の不思議な物語』(邦題『スーポーおじさんの世界ふしぎ物語』)を共同で編纂している。1934年には同年に『アタラント号』を制作した映画監督ジャン・ヴィゴのために脚本『盗まれた心』を執筆したが、映画化されないまま、ヴィゴは同年、敗血症で死去した。
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