幅広く活用された共楽館
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1917年(大正6年)2月11日から3日間、完成した共楽館の杮落としとして澤村源之助、市川九団次一行50名あまりを迎えての歌舞伎公演が行われた。共楽館は歌舞伎以外にも講演会、演奏会、展覧会、奇術など、そして映画上映が行われた。講演会は鉱山労働者やその家族たちに対する教化や精神修養を目的として、宗教関係者の説教や高等師範学校校長の講話、救世軍の山室軍平ら、そして陸海軍の軍人などが演壇に立った。映画上映については1919年(大正8年)に欧州戦争(第一次世界大戦)の活動写真会が、そして1921年(大正10年)10月には赤穂浪士討ち入りの活動写真会が行われた。また楽団演奏会、尺八演奏会、奇術と犬の芸当、菊花展が行われたとの記録が残っている。 前述のように共楽館は1階部分の座席を取り払い、コンクリート製の土間として使用することも可能であった。土間としての使用方法の代表例は相撲であった。土間に土俵を築くのである。共楽館はしばしば大相撲の地方巡業の会場として使用され、大正期には大関千葉ヶ嵜俊治一行、横綱常ノ花寛市、大関大ノ里萬助ら一行の巡業が行われたとの記録がある。 日立鉱山の祭りである山神祭の時も、1階部分をコンクリート製の土間として使用した。山神祭は7月半ばに行われていたが、山神祭では共楽館隣の万城内グラウンドに仮設の舞台が複数設けられ、芝居や映画など様々な催しが行われ、花火も打ち上げられた。そして共楽館の1階部分は土間にして噴水を設営し、場内を飾って納涼場としたのである。なお、共楽館1階の噴水は8月いっぱい設置され、納涼場として一般にも開放していた。鉱山労働者たちの居住する社宅は狭くて暑いため、夜勤後はとても寝ることが出来ないので、噴水があって涼しい共楽館で昼寝をしたとのエピソードも残っている。 鉱山労働者たちの精神的な慰安を主な目的に建設された共楽館は、教化や精神修養を目的として行われた講演活動とともに、逓信省の簡易保険奨励活動写真会、茨城県主催の勤倹強調活動写真会など、計画的で堅実な生活を送ることを奨励するキャンペーン的な行事も行われるなど、鉱山労働者やその家族たちに対する普及啓発活動に活用された面も目立つ。また1922年(大正11年)1月には、共楽館で日立鉱山在郷軍人分会連合会の発足式が行われた。在郷軍人会関連の事業はその後、共楽館でしばしば開催されるようになる。
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