宣誓の場としてのマディーナの預言者のミンバル
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「ミンバル」の記事における「宣誓の場としてのマディーナの預言者のミンバル」の解説
イスラーム世界におけるミンバルの中でも、マディーナの預言者のミンバルは当然ながら特別な位置を占めている。判決確定の過程において、預言者のミンバルの下で行われる宣誓には特別な重要性がある(偽証の罪 führt in die Hölle)。預言者のミンバルの脇もしくは上で偽証を行うと地獄へ落ちるとされる。関連するハディース(預言者の言行録)の中に、この意味で規範的な性質のものがある―― 「 私の説教壇(ミンバル)で偽証を行った者は、地獄の火に焼かれるであろう。 」 「地獄の火に焼かれるであろう」というのは、ハディースでは似たような文脈でしばしば用いられるモチーフである。預言者のこの演説を記録したと思われる最古のものは、学者マーリク・イブン・アナスの法的著作である。注釈によれば、預言者のミンバルの下で宣誓をするという被告人の要請はイスラームの法の実践の発端であったという。イスラームの伝承によれば、預言者ムハンマドは法律問題における彼の説教壇の下での宣誓をスンナとして規準化したのだという。しかしながら、今日の研究ではムハンマドの存命中ではマディーナの預言者のミンバルはメッカのカアバのような、宣誓の行われ聞かれる神聖な場所ではなかったのではないかとされている。所謂「マディーナの憲法」とされる初期のものでも最古の文書ではマディーナの預言者の家(フランス語版)を「神聖」で「ハラーム」(不可触)としているのみで、特別な場所とはしておらず、また「ミンバル」自体に言及もしていない。説教壇のタブー化、マディーナのミンバルで「特別な」誓いをすることは、その建立よりも後の時代に起源を持つようである。説教壇は徐々に「公事の議論のための演壇」(ゴルトツィーエル・イグナーツ)となっていった。カール・ハインリヒ・ベッカー(ドイツ語版)がその研究において適切に記述しているように、ミンバルは最初は「裁判官の椅子」といったものであり、誰もが知っていた祈祷の時間以外のムハンマドの居場所であった。従って、説教壇は早い時期から既に世俗的・政治的権力のシンボルとして理解されており、政治的正当性の実現と確認の場所であったのである。初代カリフの選挙の際にアブー=バクルは、人々が彼に真の誓いをさせるため説教壇に立つことを勧められたのであるとムハンマド・アル=ブハーリーによる出来事の記録に書かれている。イブン・ハンバルの『ムスナッド(英語版)』によれば――「人々が集まると、アブー=バクルは説教壇(ミンバル)の上、彼のために作られた何かの上に立ち、そこで演説をした。」 預言者のミンバルというのが構築物そのものではなく、その大きさや形も決定的ではなかったとしても、まさにその「場所」において宣誓はなされ、政治的正当性を受けたのである。 宣誓の習慣はイスラーム以前から既に存在していたので、マディーナおよび後には地方都市においての公的生活と法的判断における宣誓の場所としてのミンバルの機能はもともとはメッカの聖地とはパラレルなものとは考えられていなかった。メッカのカアバとマディーナの預言者のミンバルという2つの場の同期化は、8世紀後半、マーリク・イブン・アナスやアッシャーフィイ(英語版)の時代になってからの初期の法学での体系化によるものである。正義の発見の過程において、預言者のミンバルは法の「調停の座」مقطع الحقوق とされた。他方で、イスラーム帝国の大モスク――ダマスカス、クーファ、フスタート、コルドバ――では、ミフラーブの近くが宣誓の場として通用していた。 しかしながら、9世紀のイスラームの法学では単なるモスクのミンバルの下での宣誓は効力のないものとされていた。「何人も遊牧民のモスクでの宣誓に召喚されることはない、4分の1ディナールのためにもそれ以下のためにも。」そのような法解釈――部族の宿泊地のものと都市民のものとではモスクの間に差別がある――は、定住民と遊牧民の間に社会的差別を生じさせていた可能性が大いにある。 マディーナの預言者のミンバルは前史時代からの遺宝として残り現在では不可侵なものとなっている。こうした考えは、史料によれば、ムスリムの最初の世紀(西暦7世紀)には既にイスラームの伝統の一部として存在していた。ウマイヤ朝のカリフたち――ムアーウィヤ、アブドゥルマリク、ワリード1世――は、ウマイヤ朝の新しい首都の政治力を強調するために預言者の説教壇をダマスカスへ移設したいという意図を持っていた。ムアーウィヤは政治的意図から移設を実施しようとしたが果たせず、説教壇を布に包んで元の場所に残しておいた。物を通じた行為[訳語疑問点]はユリウス・ヴェルハウゼンと後にはC・H・ベッカーが描写しているように ある種の聖性にまで達しており、メッカのカアバにおけるものはイスラーム以前の時代から一般的であった。 預言者のミンバルのタブー化に対して人々が疑念を抱いたことは、8世紀中旬には既にハディースの形で預言者の発言に帰せられて表されていた。「人々が私の墓を偶像として崇拝し、私の説教壇を祭事に用いるようなことから神が私をお守りになるように。」 メッカではカアバに「特別な」宣誓の場所があるが、ミンバルはない。宣誓は黒石のある角とマカーム・イブラヒーム(アブラハムの立った場所)の間で行われる(baina r-rukn wa-ʾl-maqām)。アル=アズラキによれば、8世紀初頭以降はこの場所の聖性を強調するために、この場所で些細なことの宣誓を行うことは許されないとメッカの学者たちが定めた。
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